森下えみこ、どん底を乗り越えて「ようやく自分のことを描けるようになった」。45歳・独身漫画家が手に入れた軽やかな生き方
PR 公開日:2024/12/6
体調のことや仕事のことなど、何かと悩みが多い40代。ほかの人たちはどのように乗り越えているのでしょうか。『45歳(独身)、どんな感じ?』(日本文芸社)では、イラストレーターであり漫画家の森下えみこさんが、明るくふんわりと“45歳のリアル”を語っています。
読む人の心に寄り添ってくれる森下さんのコミックエッセイ。インタビューでは、漫画を描き始めた頃のお話や創作の工夫などを織り交ぜながら、新作の見どころに迫りました。
●独りで奮闘する私を見て笑ってほしい
——年齢にまつわるコミックエッセイを何冊も描いていらっしゃいますね。今回の作品は、前作『40歳になったことだし』(幻冬舎)から8年経っているようですが。
森下えみこ(以下、森下):本当は、35歳のことを描いた『本日も独りでできるもん あせるのはやめました』(KADOKAWA)で一区切りつけようと思っていたんです。コミックエッセイってネタが尽きるから、長く描けるものではないと思っていて。でも、その後に上京してネタができたから『40歳になったことだし』(幻冬舎)を描いて。今回は長いお付き合いの河合さん(新刊の編集者)が産休明けに声をかけてくれたので「また一緒に本を出したいな」と。
——編集者との関わりの中で決まったんですね。
森下:河合さんは私より少し前に西荻窪に住んでいて、西荻にある同じ花屋さんの話で盛り上がったんです。私が長くお付き合いしている編集者さんは3人くらい。私の本を読んで声をかけてくださるので、感覚が似てる編集者さんが多いです。
——35歳で会社を辞め、40歳で上京…といった過去の大きな変化に比べて、45歳の変化はジワジワと迫ってきているような印象でした。40歳から45歳までは、どんな5年間でしたか?
森下:40歳で上京してから実用書を描くことが増えて、実用書で私にできることを考えた時に、実用書をコミカライズするのが得意だと気づいて。大嶋信頼先生の『マンガでわかる「いつも誰かに振り回される」が一瞬で変わる方法』(すばる舎)が売れたこともあって、コミカライズの流れに乗った感じです。不思議なことに、興味を持ち始めたことに対してお仕事がくるんですよ。ペーパードライバーとかカメラとか。
——『独りでできるもん』(2006年)の頃から、一人暮らしや独身について描き続けていますが、何かきっかけはあったんでしょうか。
森下:そのあたりは記憶がない…。ただ、売れないと描けなくなるから、面白いものを描かなきゃと。赤裸々に描いているって言われますけど、その意識もなくて。面白いお話を描いて、私を見て笑ってほしかったんですよね。
——自分の武器になるものが、一人暮らしや独身だったというか。
森下:そうですね。当時(『独りでできるもん』の刊行が2006年)はまだコミックエッセイを描く人が少なくて。たかぎなおこさん(『150cmライフ。』)や小栗左多里さん(『ダーリンは外国人』)くらい。日記じゃダメだし、普通の漫画でもダメ。これでいいのかなって探りながら描いていた感じです。
——好きな漫画家さんや参考にした漫画などはありますか?
森下:『行け!稲中卓球部』が好きで、悲しい時にも『稲中』を読んで気分を上げていました。影響はわからないけど、それまでにも4コマを描いていたし、ギャグっぽい笑えるものを描きたいなと。当時はパソコンも持っていなかったし、自分が描いたものが本当に本になるのかもわからなくて。でも割とすぐに重版になったから、“読んでる人がいる!”って(笑)。
——共感と言ったら簡単ですけれど、森下さんのコミックエッセイは“こんな自分でもいいかも”と思えるところがあって。それが読後のほっこり感やスッキリ感につながるのかなと。
森下:描いた側が「共感してほしい」というのは嫌いで。たとえ共感できないとしても読んでほしいな、と思っています。私が描く独身のお話って、けっこう深いところまで描かないと読んでいる人には伝わらないなと思うんですね。だから、「浅い」と「深い」の真ん中よりちょっと深いところに踏み込んで描くようにしています。
●小学生の頃からコミックエッセイを描いていた
——コミックエッセイから実用書まで幅広いですが、もともと絵を描くのは好きだったのでしょうか。
森下:大好きでした。小学校の頃に「妹のあーちゃん日記」を描いて、それを台所に貼ったのがコミックエッセイの始まり。中学では部活のことを描いて友だちに配り、高校では追っかけの話を描いて友だちに配り…。会社員になったら、漫画に興味のある人が周りにいなくなったから、『別冊マーガレット』に送ったら賞をいただいて。女子高生ネタじゃなくてOLネタを描きたくなったから『ヤングユー』に送って…。
——ずっと描き続けていますね…。35歳で会社を辞めてフリーランスになったのは、絵のお仕事が増えたからですか?
森下:兼業だとお休みの日に描くから、無理をしすぎて体調を崩しちゃって。当時、手取り14万くらいでサービス残業も多いブラックな会社だったから、ここで頑張って漫画の仕事を断るなんてもったいない、と。それがちょうど『本日も独りでできるもん あせるのはやめました』を描いている頃。体調は悪いけど描き上げたいから、会社を辞めました。
——いくつか理由が重なったとはいえ、漫画一本にするには思い切りが必要だったのでは…?
森下:私、パッと決めちゃうんですね。辞める気はまったくなかったのに、“その時が来たな”となんとなく感じたんです。上京した時もそうでした。
——もともと、絵で食べていく人になる、という夢は思い描いていたんでしょうか。
森下:まったく。もし考えていたら美大や専門学校に入っていたと思います。でも東京への憧れはずっとありました。そもそも、東京勤務の求人で会社に入ったのに、なぜか配属は地元の静岡。うまくいかないな、私の人生こんなもんか…とあきらめていたんです。
——今はこうして上京されて、東京に縁があったんですね。
森下:東京は私にとって、最後に取っておく場所。落ち込んだ時も、東京に遊びに来ると元気になれたりして。もし東京に住んだら人生が変わるだろうから、逆に上京するのが怖かった。それに、仕事がまだ確立していない30代だったら、東京に負けていたと思います。40代になったら仕事や貯金がそこそこあったので、本ができあがった直後のタイミングで、“今だ!”と。
——それで、気になっていた西荻窪に引っ越しを。
森下:やまだないとさんの『西荻夫婦』を読んでから住みたいなと思っていて。仲のいい編集者さんとフラッと物件を見に行ったら、その場で決めちゃったんです。その場所に行くって、すごく大事だなと思いました。
本当はもう少し家賃が安い場所を考えていたんですけど、コミックエッセイ作家の池田暁子さんが「それはだめ。いちばん住みたい街に住まないと結局引っ越すから」とアドバイスしてくれたんです。私、いつも2番手や3番手を選ぶ傾向があって。
——自分がいちばん望むものを後回しにしていたと。
森下:結局、自信がないから、1番がダメだった時のショックを受けるのが嫌だったんだと思います。逃げですよね。これしかないってことはないと思うので、2番や3番でもいいんですけど。それと、“まだ違うな”っていう時は動かないようにしています。