恋愛は究極の贅沢品? 江戸の男性が「遊郭」に惹かれた理由とは?
更新日:2017/11/16
恋愛の先に結婚があると思っている人は多い。出会いがお見合いなどだったとしても、そこから愛が芽生えるからこそ結婚するに違いないと。実はこうした、恋愛と結婚が一直線上にあるという考え方は、歴史の中では比較的新しい。明治の西洋文化の到来以降のことだ。では、明治以前、江戸時代の人々は恋愛と結婚をどのようにとらえていたのだろうか。『三大遊郭』(堀江宏樹/幻冬舎)からそのこころを探ってみた。
江戸時代まで、特に武家の結婚は、家同士の結びつきを強めるための慣習だった。今の感覚だとひどいと思われがちだが、十代のうちに恋がどのようなものかを知ることもなく、親の決めた相手と結婚することなど普通のことだ。だから、結婚相手に愛情を抱ければよいが、もし相手との相性が良くなかった場合、一生恋する気持ちは味わえない。つまり、江戸時代、恋は、なかなか経験できない貴重な感覚。本書によると、ここに「遊郭」の需要があるという。「遊郭」に客が求めるものは恋愛、理想の恋だったのだ。
では、「遊郭」で遊ぶにはどのような手順を踏めばいいのだろうか。江戸時代前半(明暦年間頃)の江戸吉原、京都島原システムを見てみよう。この2つは、時代劇でよく出てくる幕府公認の「遊郭」だ。
まず、客は「引手茶屋」という案内所で遊女の指名をする。それから、遊女と会う店に向かう。これは、「揚屋(あげや)」と呼ばれる料理屋の座敷だ。指名を受けた遊女は、生活の場である「置屋(おきや)」にてゆるりと支度をし、「道中(どうちゅう)」という行列を組んで、客のもとへ向かう。案内所から座敷までの移動、道中行列といった一見面倒なこれらの行為は、日常から非日常へトリップする大事な仕掛けだ。座敷では、性的サービスはメインではなく、風流な遊びを介して、日常とは完全に離れた至高の恋愛を楽しんだ。
なかでも、遊女の中で最上位の「太夫(たゆう)」は高い教養を身に付け、歌や楽器の演奏に秀でていることが望まれた。接客中は、どんな相手にも丁寧に愛を表し、客好みの理想の女性になる。行為におよべば情熱的。切ない声と焦らしのテクニックで客を夢中にさせる。すべてが終わると、しつこさのない別れの情緒を、美しい声で演出する。江戸初期、客はお金のある上流の武士が多く、大金をはたいてでも理想の恋愛を求めたのだ。
しかし、江戸時代も後半になると、武士の経済状態は火の車に。代わって街の商人をはじめとする庶民がお客となる。庶民は、武士ほど格や教養にこだわらず、値段も安く楽しみたい。そこで、本来は歌や楽器担当の「芸者」や、格子越しに手招きして客を呼ぶ「散茶」という格下の遊女を相手にする者が増えた。その結果「太夫」は、吉原では消滅、島原では存続し伝統と格式を守りぬいたが、往時の勢いはなかったようだ。また、お手頃価格ゆえ、この頃は、深川、浅草、祇園といった非公認の花街も、大変な賑わいを見せた。遊びの内容も、洗練された至高の恋を味わう仕掛けよりも、実技がメインに。それでも、遊女たちの目の前の客だけを愛しているというそぶりは、客が店に通う一番の理由だった。
理想の恋を売る遊女たちの環境は厳しく、梅毒と隣り合わせ。妊娠すれば身体に負担をかけて堕胎しなくてはならない。自由に外にも出られなかった。だが、西欧のように一度娼婦になったら、一般社会には二度と戻れないということはなかったし、世間の眼差しも、比較的やわらかかったのではないかと推察される。江戸時代までの日本は、西洋のように処女礼賛ではないからだ。
それにしても、理想の愛を経験することなど、現代人にも難しいのではないか――。現在パートナーがいる人でも、相手を究極の理想の恋人だと皆が思っているわけではないだろう。現代人が、小説・漫画・ゲームなどで、現実世界では難しい至高の恋を味わう気持ちは、江戸時代の遊郭に通う人々のこころと変わらないのではないか。手が届かないからこそ恋は理想化されて、さらにこの世の普通の生活では味わえないものになっていくのかもしれない。
文=奥みんす