性暴力の被害が「言ってはいけないこと」のように扱われる社会

社会

公開日:2016/2/4


『性犯罪被害とたたかうということ』(小林美佳/朝日新聞出版)

 日本の刑法において、強姦罪を犯した者は、3年以上(20年以下、刑法12条1項)の有期懲役に処せられる(177条1項)。これは、強盗罪を犯した者が5年以上20年以下の有期懲役に処せられる(刑法236条)のに比べ、刑の下限が軽くなっている。つまり、女性の性的自由が財産権よりも低く扱われていることを意味する。刑法がいまだ女性差別がはびこっていた時代に制定されたことが大いに関係しているだろうが、このことが性暴力にさらされた被害者たちを追い詰める一因となっているのではないか、と推測する。

性犯罪被害とたたかうということ』(小林美佳/朝日新聞出版)の著者は、2000年に2人組の男性から性暴力を受けた。その後、彼女の時間は実に8年間もの間、止まってしまう。何度も自殺を考えたという彼女は、「私だけが汚れている。私は社会の邪魔者でしかないんだ」(同書22頁)と思い込んでしまったという。彼女は被害者なのだから汚れてなんかいない、読者としてはそう思うかもしれないが、この本には同様の表現が何度となく登場する。おそらく性暴力を受けたことのない者がどれだけ否定しても消してあげられない感情なのだろう。

 その他にも、この本には、読んで初めて気づかされることが多く記載されている。3000人もの被害者と真摯に向き合ってきた筆者だからこそ書けることだ。その中でも、もう1点私が興味を惹かれたのは次の記載である。

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性暴力の被害体験が「言ってはいけないこと」のようにされているのはなぜなのでしょうか
(同書106頁)

 ひょっとしたら、私の周りにも、これを読んでいる皆さまの周りにも、性暴力を受けた人がいらっしゃるかもしれない。けれど、当事者以外はどこか遠い場所で起きている出来事だと捉えてしまってはいないだろうか。それはきっと当事者が「言ってはいけない」こととして胸の奥に仕舞っているからだろう。そして、私はその原因は性暴力を受けた者は汚れているという当事者の(あるいは、社会全体の)認識にあると考える。だが、繰り返しになるが、彼女たち、及び彼らは決して汚れてなんかいない。ある日突然、日常を奪われた被害者なのだ。

 ならば、なぜ「汚れてしまった」「恥ずかしい」と感じるのだろうか。今から述べることは、あくまで性暴力を受けたことのない一個人の意見であることを付言したうえで、考えてみたい。『性犯罪者の頭の中(幻冬舎新書)』(鈴木伸元/幻冬舎)において、加害者側の心理がさまざまな角度から分析されている。これによると、強姦罪や強制わいせつ罪の動機は性欲だけではない(歪んだ性欲の末が性犯罪であるという認識は誤りであることが繰り返し言及されている)。殺人罪や窃盗罪など、他の犯罪と同様に種々の感情・欲望が重なり合ったうえで、犯行に至っている。そのうちの1つの感情が「支配欲」である。

 科学警察研究所が性犯罪者たちに「なぜ今回の被害者を“被害者”として選定したのか」を問うたところ、「警察に届け出ることはないと思った」という回答が最も多く(37.2%)、次いで「おとなしそうに見えた(抵抗されないと思った)」(36.1%)という回答が多かった(複数回答可)。つまり、支配欲を満たせそうな相手を選んでいるといえる。逆に言えば、被害者は最も守りたいものの1つであろう、性的自由を守れず、征服されてしまったと認識させられるのではないだろうか。その結果、「汚れてしまった」「恥ずかしい」と感じてしまうのではないか、と考える。ましてや勇気をもって被害を明らかにしたところで、性的自由の要保護性は低く、犯人が適正に罰せられるとは限らない。ますます追い詰められてしまうだろう。しかし、『性犯罪者の頭の中』において指摘されているように、性犯罪は“魂の殺人”である。

 性暴力の被害体験を「言ってはいけないこと」とする社会は間違っている。それがこれらの本を読んだ私の感想である。あなたがどう思うのか、もしよければこれらの本を実際に手に取って考えていただきたい。

文=藤田ひかり