日本のシルクロードとは?「街道」の歴史がこんなに面白いなんて!

文芸・カルチャー

公開日:2016/2/24


『地図と写真から見える! 日本の街道 歴史を巡る!』(街道めぐりの会/西東社)

 日本には実に多くの「街道」がある。そもそも街道とは何か。単なる道ではなく、目的地へと続く交通路のことだ。古来より日本では、神社仏閣へ参拝する街道や、要所から要所へと続く街道が整備されてきた。

 その街道の歴史を知ることによって、教科書とは違った観点から日本史を見ることができる。また、街道は現在でも残っている(利用されている)ものも多い。実際に歩いてみると、今なお歴史の風情が色濃く残っている街道もある。

 最近お昼の情報番組で、女お笑い芸人が「日本橋から京都三条大橋を結ぶ、東海道五十三次を歩く」という企画をやっているが、今後このような「街道を旅する」ブームが来てもおかしくないかも。

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 さて、そんな街道への知識と、実際に旅行をすることになった際、情報源として最適な一冊がある。

地図と写真から見える! 日本の街道 歴史を巡る!』(街道めぐりの会/西東社)は、フルカラーでハンドブックサイズの「旅のお供」だ。

 例えば東海道なら、その五十三の宿場が地図と共に掲載されており、「名所」と言われる場所の歴史雑学が載っている。東海道五十三次は、1600年に徳川家康によって整備された。当時「伝馬制」といって、宿場ごとに公的な人や馬をあらかじめ用意しておき、緊急時や情報伝達のために使用したのだ。その宿場の数が五十三なので、東海道五十三次と呼ばれている。

 東海道と言えば弥次さん喜多さんで有名な『東海道中膝栗毛』。本書はこの二人の道中も、地図と写真とともに紹介してくれている。

 また、2004年にユネスコ世界遺産にその一部分が登録された「熊野古道」についても 載っている。世界遺産になったものの、「つまり何? 道なの?」と思っている人も多いと思うので、ここで少し紹介を。

 熊野古道とは、紀伊半島南部の熊野と伊勢や大阪・和歌山、高野や吉野を結ぶ古い街道の総称だ。熊野三山への参詣のために整備された街道で、平安時代頃から参詣道として発展したそうな。熊野三山とは「熊野那智大社」「熊野速玉大社」「熊野本宮大社」のこと。この三社に各地の人々が訪れるようになったため、熊野古道が成立したのである。

 熊野古道と言えば、山深い森の中、苔むした石畳の写真が有名だが、この石畳がなぜ作られたのか、ちゃんとした理由がある。東紀州地域は日本でも有数の雨が多い地域。激しい雨が降ると、土砂が流され道が崩れることもあったとか。それが石畳だと、道の強度を保つことができ、崩れるのを防ぐことができたそうだ。また、傾斜を緩やかにすることで駕籠の行き来も可能になった(それでも、あんな山道で担ぐ人は大変だっただろう……)。

 近代になってからできた街道もある。日本にもシルクロードがあったことをご存じだろうか? 「神奈川往還」といわれる八王子から横浜を結ぶ道は「絹の道」と呼ばれ、生糸貿易、強いては日本の近代化を支えた街道だ。

 幕末から、横浜は外国貿易の拠点港として栄え、輸出品は主に生糸であった。八王子は古くから養蚕が盛んで、「桑の都」とまで呼ばれている。その八王子に、多摩等周辺の養蚕地域から生糸が集められ、それをまとめて横浜に運んだ道が「神奈川往還」なのだ。明治に入り鉄道ができると街道は廃れてしまったが、今でも当時の面影を残している部分が、「歴史の道百選」として文化庁より指定されている。

 更に、交通渋滞情報などでよく耳にする「甲州街道」は、江戸から甲府(山梨県)までを繋ぐ道なのだが、この街道が整備されたのは、江戸城に住む徳川家康に何かあった時の「避難ルート」にするためであったとか。

 このように、街道はただの道ではなく、何かしらの意図があってできるものである。

 その歴史に想いをはせながら、休日に「街道めぐり」をするのも面白いのではないだろうか。

文=雨野裾