震災から5年――記憶を風化させないための地震考古学
公開日:2016/3/6
「日本列島は地震大国だ」とはよくいわれることである。
その通り、日本は太古から大小問わず、様々な震災に苦しめられてきた。地震、またそれによって引き起こされる津波により、奪われた命は数知れず。亡くなった命、遺された家族、多くの悲しみが、縄文時代から現代に至るまで、幾度も日本を覆い尽くしている。
『地震の日本史 大地は何を語るのか 増補版(中公新書)』(寒川 旭/中央公論新社)は、地震考古学の視点から、地震の歴史をひもといた一冊である。
日本ほど過去千数百年の記録が文字として残り、地震の記憶を遡れる国は珍しいらしい。その先代が残した膨大な記録と、考古学の調査により地震の日本史を明らかにした本書は、「多くの人たちが、自分の住んでいる地域で起きた地震を知るのが、将来の地震に備える一歩。過去の地震を総攬して分かりやすい形で紹介できないだろうか」という想いから生まれたものである。
大きな地震は、ある程度定まった場所で繰り返し発生し、地域によって揺れ方や被害のタイプが異なる。つまり、過去の地震を知ることによって、現在の自分たちの生活圏では、どのような地震が起こる可能性があるのか、そのパターンが分かる。そこから今後来るべき災害に向けて、将来の備えができるのだ。
あまり知られていないかもしれないが、安土桃山時代は幾度か大きな地震に見舞われた年代だった。
1586年1月18日午後10時過ぎ。中部地域から近畿東部にかけての広い範囲でマグニチュード8に近い地震が発生した。
天正地震として後に知られるこの震災で、奥飛騨の秘境、白川にあった帰雲城(かえりくもじょう)は、悲劇の城となった。城の背後にそびえる帰雲山の山腹が崩れ落ち、押し寄せた土砂によって一瞬にして埋め尽くされたである。城だけではない。周囲に居住していた300軒あまりの家屋もろとも、土砂に埋まってしまったらしい。当時の記録では、この地に住んでいた人々は残らず亡くなり、他国にいて被害に遭わなかった4人がその地に戻ってみると、一帯は大きな淵になっていたという。
故郷を失くし、家族や知人を失ったであろうこの4人の心情を想うと、筆舌に尽くしがたい。
また、この地震の悲劇はこれだけではない。以前、大河ドラマにもなった「山内一豊(やまうちかずとよ)」に関するエピソードも残っている。現在の滋賀県北東部、長浜の城主であった山内一豊が、京都にあって留守中の際、天正地震が起こり、長浜城の建物が崩れ落ちたという。
妻の千代と、6歳になる娘の与禰(よね)は城内にいた。地震発生後、家臣の五藤為重(ごとうためしげ)は、倒壊した御殿の上から、千代が自分を呼ぶ声がしてそこへ向かう。千代は真っ先に「およねは?」と娘の身を心配したという。為重は「この状況では、姫様が難をお逃れになったとは考えづらい」と内心思っていたが、千代を落ち着かるために「ご無事です」と答え、彼女を安全な場所に案内してから、与禰のいる屋敷へと急いだ。
建物はことごとく倒壊していたので、屋根を破って中を覗くと、大きな棟木が落ちかかり、与禰と乳母は下敷きになり息絶えていたそうだ。真っ先に我が娘を心配した千代の不安と、その千代を想ってウソを吐いた為重の優しさ、そして与禰が亡くなっているのを確認した時の彼の気持ちは、現在の私たちでも十分に共感できる感情だろう。
この10年後の1596年には伏見地震が起こっている。この地震は「京都盆地南西部から大阪平野北縁を通り、淡路島にいたる長さ約80キロの範囲にある多くの活断層が一斉に活動し、内陸地震としては最大級のマグニチュード8近い規模をもつ大型地震」だそうだ。
短い期間に、これほど大きな地震が頻発しているのも注目したい。
東日本大震災から5年経ち、地震直後に高まった「防災」意識は徐々に薄れつつあるのではないだろうか。もちろん、むやみやたらに怖がる必要はないし、未来のことは誰にも分からない。
だが、過去の経験から学び、日常的な「防災」を心がけることは、個人レベルでも必要であることは明白である。歴史が教えてくれる事実を知り、これを機会に、一人一人が防災の大切さを考え直してほしいと思う。
文=雨野裾