満州国立建国大学、スーパーエリートたちの夢とその後――「そこには言論の自由があった」
公開日:2016/3/7
物事にはタイムリミットがある。今やらなければ永遠に消えてしまうものがある。昨年(2015)の「開高健ノンフィクション賞」受賞作は、まさにそのチャンスを捕まえた作。満州国立建国大学に在籍していた者たちに取材を試みた『五色の虹』(三浦英之/集英社)だ。かつての学生たちは、現在若くても85歳。鬼籍に入った者も少なくない。卒業から70年ほどが経つにもかかわらず、また、卒業後、日本・中国・ソビエトなど各地に散らばってしまったにもかかわらず、青春を共にした同窓意識はなお健在だ。本書から、時の流れの中に埋もれゆくところであった建国大学と、その卒業生について紹介したい。
満州国――。1932年、日本は中国東北部に満州国を建国した。清朝最後の皇帝溥儀を擁立し、実権を日本人が握る傀儡政権。建国大学は、この国の文科系最高学府として、首都新京(現長春)に創設された。五族協和を建学の精神とし、日本人、中国人、朝鮮人、モンゴル人、白系ロシア人(共産主義者ではないロシア人)の中から優秀な学生を集め、将来の満州国の指導者たるべき人材を育てることを目的とした。学生たちは、官費から賄われる全寮制での共同生活を送り、授業料は無料。こうした金銭面での好条件も手伝い、創立当時は定員150名に対して、日本領内および満州国内から約2万人の志願者が集まったという。よって、合格者は東アジアを代表するスーパーエリートということになる。
志願者の志望動機は、多種多様。例えば、成績優秀で東大か京大に行きたかったが金銭的な都合で、または、純粋に満州国の発展を願って、民族の将来を考えて、などといった具合だ。出身地も、日本、朝鮮、中国、モンゴルなど東アジア全域に及んだ。それにしても、中国大陸に日本が侵攻しているときに、侵略側出身の学生と、被侵略側の出身の学生たちが、同じ屋根の下、共同生活を送ることなど可能なのだろうか。普通に考えれば、喧嘩や対立で勉学どころではないだろう。
ところが、出身者にインタビューをすると、彼らは口を揃えて「そこには言論の自由があった」と言う。大学から一歩外に出れば、言論統制下の社会。軍部や政権の批判などもってのほかだ。しかし、寮内では毎晩、中国人と日本人、朝鮮人がそれぞれの立場から批判をぶつけあったという。第一期生の藤森孝一氏は、「建設的で、批評的で、何より自由で。(中略)民族が違えば考え方は当然違う。そこら辺のことはみんな承知した上で、私たちはそれを誇りに思っていました」と述べる。議論は毎夜熱を帯び、互いが納得する結論など出ない。それでも、相手の本音を聴くうちに、相手の民族や国のことをより深く理解するようになっていく。また、藤森氏は言葉を濁しながらも、政府から教えられる五族共和の理想と現実のギャップ、日本の大陸支配のあり方への疑問も感じるようになったことを漏らす。しかし一方では、「近い将来に必ず対等の関係になれると信じていた」とも言う。学生たちの心には、理想の多民族国家をつくるという志が、確かにあったようだ。
日本の敗戦とともに満州国が消滅すると、建国大学も解散。学生たちは、祖国に帰るなどそれぞれの道を歩むことになる。非日系の学生たちの多くは、戦後、「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府から厳しい糾弾や弾圧を受ける。このような中、唯一韓国だけが、彼らをエリートとして政府の中枢に登用した。彼らの優れた語学力と国際感覚、軍事知識が、戦後の新しい国家建設に役立つと考えられたためだ。
先の藤森氏は、終戦時、学徒動員で関東軍にいたところ、侵攻してきたソ連軍により捕虜収容所へ。寒さと飢えと病が隣り合わせの、過酷な強制労働を強いられた。多くの捕虜が息絶えていく中、藤森氏は生き延び、戦後2年を経て故郷の長野県諏訪に戻った。大陸に渡って8年。彼は26歳になっていた。実家で3年ほど農業をした後、知人を頼って上京。会社勤めや宝石商の手伝いなどをしながら細々と暮らしをつないだという。著者の三浦氏は敢えて尋ねる。「藤森さんの人生は幸せだったのでしょうか」。建大生の中でも一際明晰な頭脳と誰もが一目置く人格の持ち主だった氏は、何者かになれたはずの人材だったのだ。著者の質問に答える藤森氏は、緩やかに次のように言った。
自分ではよくわかりません。人生は一度きりしかありませんから。誰にもその比較ができません。若い頃は目の前に沢山の道が開けていて、全部が自分の可能性のように思えてしまう。(中略)でも本当はそうじゃない。そのうちのほんの一つしか選べない。自分が生きてきた人生がすなわち私の人生だとすれば、私は私の人生に悔いというものはありません
時代の波と無関係ではいられない、人生の不思議さを思うとともに、大陸に咲いた理想とその後の彼らの人生に敬意を表したい。
文=奥みんす