「福島とチェルノブイリの事故は共時的」チェルノブイリ、福島を撮影した写真家・中筋純さんインタビュー【後編】
更新日:2020/9/1
2011年、東日本大震災によって起きた原発事故で甚大な被害を受けた福島浜通りの街。その風景を写した作品集『かさぶた』(中筋純/東邦出版)を出版した写真家の中筋純さんに、福島はどうなっているのかを写真を拝見しながらお話を伺った。あれから節目の5年を迎えた今年、あの日感じたことを忘れないため、考えてしまうことを止めないため、そして現実に起きていることから目を背けないために…
優しく地球の傷を癒やす「かさぶた」
これは表紙に使われた、浪江町にある常磐線の線路を覆うように生えるセンニンソウの写真だ。中筋さんは地球が自らを覆いながら癒やそうとする「かさぶた」のように感じたという。
「元あった人間の暮らしが植物などの自然に覆われてしまうと、ある意味暴力的な風景に見えるかもしれないですけど、こういう草って原発事故で人間が逃げようが、そんなことには関心がないわけです。自分が生きたいようにふわーっと触手を伸ばして、どんどんどんどん覆い尽くしていくという当然の行為をしてるだけ。地球からしてみれば、放射線を出す異物が置かれた裸地を、代わりに植物が覆い尽くそうとしている。そういうイメージで見ると、優しく傷を癒やしているような感じがしたんです。でもそのかさぶたを剥がした下には、まだ固まっていないドロドロしたものがある。それをめくってまだ血を出させようと、人間は無駄な除染作業をしているんですよ」
その除染作業で出た土を詰めたフレコンバッグは、福島のあちこちで大量に積み上げられている。
「土地ってやっぱり、こんな霊的な話をするとカルトっぽく聞こえるかもしれないけど、やっぱり地霊とかって絶対あると思うんです。福島の仏浜にフレコンバッグが積み上げられていて、それが偶然にも仏像の螺髪っぽく見えるって、単なる偶然じゃないですよ。何かがどっかでつながってると思うんです」
あちこちのフレコンバッグの中からセイタカアワダチソウが勢い良く伸びる。そして絶望的に真っ黒な海が、見渡す限り続く。(2015年10月 富岡町)
“共時的”な事故後の福島とチェルノブイリ
「福島とチェルノブイリの事故は、期間にして25年、距離は8500キロも離れてるんですけど、1回原子炉が破綻すると、そこから始まる時間の流れ方って同じなんです。しかもチェルノブイリは13万8000人、福島は14万5000人が避難をして、同じように3日分の荷物持って行けと言われ、そのまま戻れなかった。こういうところまで共時的なんです」
マグニチュード9.0の激しい揺れは棚を倒し、商品を散乱させた。人が来店しなくなったスーパーマーケットには虫や動物たちが腐っていく食べ物を食い散らかしていった跡があったという。(2015年10月 富岡町)
チェルノブイリは事故から30年経った現在も発電所から30キロ圏内は居住禁止、あちこちに高線量のホットスポットが残っている。しかし事故の数年後からチェルノブイリの周辺の村にもともと住んでいた老人が自分の家に戻り、再び暮らし始めているという。
「これから先、福島は避難解除されていくでしょうが、チェルノブイリに戻った人たちみたいなことが起こるんじゃないかと思うんです。もしそうなったら、どういう人が、なぜ帰ってきたのかということを聞いてみたい。住むのがその土地でないといけない理由は、チェルノブイリに戻って来た人たちと同じになると僕は考えているんです。彼らは泉の周りに住み、野菜や動物を育て、森で薪を拾って燃料としながら、小さな裸電球の明かりで暮らしている。自分の周りの小さなコミュニティの中で生きていくことに安心感を持っているんですね。それは都心の暮らしとは真逆のこと。最先端の技術が破綻する原発事故には、そういうギャップが出てくるものなんです」
しかし放射線は見た目にはわからない。その影響を知らない間に受け続けることで、体や健康に深刻な影響が出る人もいるし、まったく出ない人もいる。そこには確たる実体がないので、対象となるものが曖昧になり、時間の長さや統計、数字だけで割り切ることもできない。ところが主観的な考えや判断、また一方的な線引きに振り回されてしまうことが多々ある。そうしたところが「とても形而上学的に感じる。そうした罪作りな空間ができてしまった」と中筋さんはいう。
「放射線ってガイガーカウンターだけが証だから、それがなければわからないんです。別にピリピリするわけではないし、苦しくなったりもないですから。でもその数字って、麻痺しちゃうんです。東京から撮影に行くときに高速道路を走っていると、いわきを過ぎて、四倉インター辺りからピピッとガイガーカウンターが反応し始めて、0.09μシーベルトくらいだったのが0.1になると『上がってきたな』と思うんです。それが楢葉町、富岡町へ入るとどんどん上がってくる。さらに立ち入り禁止区域に入ると、あれよあれよという間に3とか4μシーベルトになる。これはさすがにやばいと思って、ちょっと体を休めようと駅前に戻ると1μシーベルトくらいに下がるから、ここで休もうか、となるんです。最初は0.1μシーベルトに上がっただけで驚いていたのに」
「あの日」のことを思い出して欲しい
インフラが充実した便利で安全な生活。それが2011年3月11日に突如断ち切られたと感じた人は多かったはずだ。携帯電話は通じず、電車が止まってしまったために余震の続く中を徒歩で帰宅したり、会社などで不安な一夜を明かした人もいただろう。そして店の棚からは食べ物や日用品が消え、水道水の安全性に不安を覚えたこともあった。また節電が叫ばれて輪番停電も行われるなど、一時街は暗くなった。しかし今ではそんなことをすっかり忘れたかのように、ペカペカした光の洪水が溢れる元の世界へと戻ってしまった。
「僕は『四六時中福島のことを考えろ』なんて言える立場にはないし、インフラを作ってきたのは人間の文明の素晴らしいところだとも思っています。ただ、あの震災のときに首都圏に住んでいた人たちは、福島の原発から来た電気などのインフラが、点滴チューブのように体に繋がれて自分は生かされていたんだな、と感じたはずなんです。あの日どう感じたのか、暗かった街で何を考えたのか、輪番停電のときはどんな気持ちでいたか、そんなことを思い出して欲しいんです」
3月11日で日付が止まっている、生徒の荷物が残ったままの教室。生徒のいない教室にひとり戻ってきた先生は、どんな気持ちでこの言葉を板書したのだろうか。(2015年4月 富岡町)
故郷へ帰れば家族や友人がいる、懐かしい生まれ育った街がある…当たり前であったはずの日常が原発事故によって一変し、住んでいた人たちをつないでいた土地や心の記憶をも奪い取り、人々は散り散りになっていった。中でも子どもたちは、避難した日を最後に故郷へ戻ることも許されず、その成長を優しく見守ってくれていた人や遊んでいた場所、友情を育んでいた友達、その土地で育っていくはずだった未来も失ってしまった。『かさぶた』にはそんな福島に関係が深い人たちの言葉も掲載されている。
「この写真集を通じて、今の自分の暮らしや育った故郷、自分の大事な人、そういうところに思いを馳せてもらいたいです。そうすると、この先どうするかという議論をしたり、アクションを起こすきっかけになってくれるんじゃないかなと。そうなってくれることを願っています」
取材・文 成田全(ナリタタモツ)
大熊町の大野駅前商店街のパノラマ写真。巡回展では福島とチェルノブイリのパノラマ写真を中心に展示しているが、自然が遺構を覆い尽くしていく風景はあまりに酷似している。(2014年6月 大熊町)
2016年
3/11~16 パルテノン多摩市民ギャラリー(東京)
4/15~26 旧日本銀行広島支店(広島)
7/23~27 函館市芸術ホールギャラリー(北海道)
8/2~7 札幌市民ギャラリー(北海道)
8/30~9/4 横浜市民ギャラリー(神奈川)
10/18~23 名古屋市民ギャラリー 栄(愛知)
11/1~6 同時代ギャラリー(京都)
2017年
1/11~15 長崎県立美術館 県民ギャラリーC(長崎)
※福井、福島でも開催予定(時期、会場未定)