“原爆の父”オッペンハイマーは原爆投下による悲劇を予期することはできなかったのか
公開日:2016/3/12
「科学者は罪を知った。」―これは原爆製造の責任者として原爆開発プロジェクトに立ち上げ当初から関わっていたオッペンハイマーが1947年に行ったスピーチの中で語った言葉である。人類史上至高の科学技術を結集し生み出された原子力という新たなエネルギーが史上最悪の殺戮兵器として人類に牙を剥いた時、彼は一体どのような“罪”を知ったのだろうか。今回紹介する『オッペンハイマー 原爆の父はなぜ水爆開発に反対したか(中公新書)』(中沢志保/中央公論社)では、そんなオッペンハイマーの科学者としての功績、原爆計画責任者という立場のある人間としての罪、そして彼自身の苦悩に関して丁寧な考証がなされている。
1945年8月6日、そして9日。たった一発の爆弾が、人を、家を、街をも飲み込んだ。一瞬の閃光の後、訳もわからぬまま苦しみ命を落とした人が何十万人といたことだろう。そして今もなおその後遺症に苦しむ人が大勢いる。日本人にとって忘れえぬ日となった悲劇の日。オッペンハイマーこそがその日を作り出した張本人であった。これほどまでに残虐で、非人道的な兵器が、なぜこの世に生み出されたのであろうか?
それは第二次世界大戦下におけるナチス・ドイツの台頭に対する恐怖感に端を発するものであると筆者は言う。当時のナチス・ドイツの狂気に満ちた政策や軍事行動の数々は海を隔てたアメリカにもインパクトを与え、アメリカの平和を脅かすものとしてヒトラーは倒すべき存在だという認識がされていた。そして何より「ヒトラーと原爆」という、考えうる最悪の組み合わせを防ぐために科学者たちは躍起になっていたのだという。
ドイツ降伏後、原爆は対日政策の手段としての使用が考えられるようになる。原爆投下の必要性があったのか?ということはしばしば指摘されることだが、アメリカ国内においては「一人でも多くのアメリカ兵の命を救うために必要な手段」という認識がされていたようだ。オッペンハイマー自身も公の場では原爆投下に反対の立場を示すことはなかったが、彼は政府の科学顧問という立場であったから今更原爆投下を止めることなど許されなかったのだろう。本書の中に指摘はないが、自分の研究成果を世に知らしめたいという科学者としての功名心や自尊心もあったのではないかと私は思う。
一方で、原子力が軍事利用されることで人の手を離れコントロール不能なものになるというオッペンハイマーの抱える不安が、この頃の彼の様々な挙動から推察できると筆者は指摘する。そしてその心のうちを象徴するように、対日原爆投下直前の頃には彼は核の国際管理体制の必要性を度々口にするようになる。核の開発競争が始まれば世界は破滅に向かいかねないと警鐘を鳴らし、必要に応じてソ連とも足並みを揃え情報共有をすべきだと彼は主張した。しかし戦後、軍事的優位を確立し他国をリードする立場に立ちたいというアメリカ政府の思惑があり、彼の主張は受け入れられることはなかった。その後アメリカで水爆開発が始められた時、オッペンハイマーは強く反対の意を示した。原爆以上のパワーを持つ水爆は人類には統御しきれないと考えたからであるが、この時もまた政治という抗いがたい大きな波に呑まれ彼の主張が受け入れられることはなかった。
オッペンハイマーが予見した通り、その後の世界は混沌としたものになった。ソ連の核開発による米ソ冷戦突入、ベトナム戦争、冷戦が終結し一段落かと思いきやイラン・イラク戦争、中東では今もなおシリア内戦やISによる武力行使など不安定な状態が続いている。武力に対し更に強大な武力で対抗しても、新たな憎しみの種を産むだけで問題解決には繋がらない。オッペンハイマーはそのことに気付いてはいたものの、政治というしがらみから逃れられず、原爆投下を防ぐことはできなかった。もちろん原爆開発プロジェクトのトップとして彼の責任は問われ続けなければならないが、罪を知るべき人間は他にもいるはずではないのか―直接的な表現こそないものの、そのような筆者の断罪の叫びが行間からヒシヒシと伝わってくる本であった。
文=ヤマグチユウコ