たけしの挫折を救った無名の高校球児、戦後経済を支えたエンタメ「野球」…。ビートたけしが語る野球と日本の戦後史!

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公開日:2016/3/18


『野球小僧の戦後史——国民のスポーツから日本が見える』(ビートたけし/祥伝社)

 日本の大御所芸人で、映画監督として巨匠と呼ばれるビートたけしが、長嶋茂雄氏との対談であたふたしていた。昨年末に放送されたテレビ東京の特番での共演でのこと。たけし氏は長嶋氏を前に、「長嶋さんが現れると震えます」とはにかんでいた。大御所でも巨匠でもない、野球小僧のような表情になって――。

 たけし氏の新書である『野球小僧の戦後史——国民のスポーツから日本が見える』(ビートたけし/祥伝社)を読むと、その理由がよくわかる。子どもの頃からのスターだった長嶋氏の現役時代から現在に至るまで数々の伝説が、自分史とともに浮き彫りになっているのだ。

戦後70年がそのまま人生。69歳のたけし氏が振り返る「戦後」が逞しすぎる

 2015年は、戦後70年の節目の年だった。69歳のたけし氏にとって、戦後がそのまま人生と重なる。ということでたけし氏が自分史とともに戦後をなぞらえていくのだが、野球小僧だった頃から「野球」が生活の一部としてなくてはならないものだった。

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 しかも、その小僧時代からして逞しい。かの有名な「もはや戦後ではない」と経済企画庁が経済白書で“宣言”したのが、昭和31年(1956年)。たけし氏は当時9歳。あっけらかんと振り返る。

昭和30年代当時って「戦後の終わり」の実感なんてあんまりなかったんじゃないのかな。“赤痢寒天”が売られているぐらいで、まだまだ衛生状態も悪かったし。

 赤痢寒天とは、太いストローのようなものに食紅かなにかで色づけされた寒天が入っているお菓子で、店の埃だらけの軒先で売られていたとか。他にも、現代の清潔な子どもには、想像もできない不衛生さの中で、少年らは野球に興じていた。

 例えば、たけし少年は空き地で草野球に夢中になっていた。すると、ある日、ライト側にキャベツ畑ができていた。構わず野球に興じていたのだが、そこのお百姓さんは、子どもたちが入ってきて畑を荒らさないようウンコをまいたのだ。当時の肥料である。たけし少年らは気をつけながら野球をするのだが、時々どうしてもライト側に球が飛んでいってしまう。ウンコまみれの球を拾い、足下もウンコだらけになると、野球を続けた。そうした球は、回虫やギョウ虫の卵だらけ。当然、学校の寄生虫検査にひっかかる子もザラだった。

 赤ん坊の妹を背負って、ぎゃんぎゃん鳴くのも構わずベースを回った野球仲間もいたとか。貧しい時代にもめげず、野球に興じた少年たちは、どこまでも明るく逞しい。

激動の昭和から売れっ子漫才師へ。挫折を救った無名の高校球児

 草野球に明け暮れた小学生時代にはじまり、中学と高校でも野球部に所属していたたけし氏。大学在学時も高校時代に続いて軟式野球部に所属していたが、硬式野球部から勧誘されたこともあるという。ところが大学2年になると、学生運動が盛んな時代へと突入。誘われるがままにデモに参加し、命からがら逃げ出したことも。

 長嶋氏が引退した1974年に、たけし氏はツービートを結成。そのことをたけし氏は、同書内で感慨深げに「この年はすごいね」と語る。1983年に「たけし軍団」をつくり、草野球をはじめた。その試合数は年間百数十試合(!)。プロ並みの試合数をこなしたという。

 デビュー当初、漫才をやめようとしたのを思いとどまらせたきっかけも野球だった。ある日、たけし氏は仕事をさぼって、神宮球場を訪れる。そこでは高校野球の予選の決勝カード「早実対帝京」が行われていた。7回、4点ビハインドの早実は1年生を代打に送ると、その1年生が3ラン。流れを覆し、逆転優勝を飾った。「ものすげえホームランだった」と同氏は振り返る。

打った1年生は阿部淳一選手という名前だった。(中略)次の大会には出てこなかった。聞いたら、交通事故で亡くなっていたの。(中略)おれは阿部選手の、生命力を燃焼させたようなホームランを見て、漫才を続けようと思った。

 1968年、日本は西ドイツを抜いて世界第2位の経済大国に。一方で1965年から73年までは、巨人が日本シリーズ9連覇を果たした。たけし氏は、「社会全体がガンガン上昇していくときに人気チームが連勝して、エンターテインメントも盛り上がるんじゃないかな」「そこに企業がリンクするというね」と語る。

 野球人気はかつてほどの熱はない。けれども、火付け役が作用し合えば、以前のようにエンタメや経済を押し上げる大きな力になるのかもしれない。大物すぎる野球小僧の歴史物語は、楽しくも逞しい未来を描かせる。

文=松山ようこ