「理研」は科学者の楽園か? その成り立ちと歴史を追うことで、見えてくるものとは――
公開日:2016/4/12
STAP細胞に関連する一連の騒動を発端に、「理化学研究所」のイメージは著しく低下してしまったように思う。先日、小保方晴子さんが『あの日』という著書を出版された。その内容は「理研」の印象を更に不可解にさせる内容でもあった。
本当に「理研」とは一体何なのだろうか?
現在の理研の様子からうかがい知ろうとすることも大切だが、その成立理由や歴史から見てみるのも一つの手だろう。
『「科学者の楽園」をつくった男 大河内正敏と理化学研究所(河出文庫)』(宮田親平/河出書房新社)は、「理研」がどのように発足し、大正、昭和、そして戦争の時代を経て、現代まで続いてきたその歴史を、理研の三代目所長、大河内正敏の一生と共に追っている傑作ノンフィクションだ。
「理研」が誕生したのは1917年(大正6年)。化学者である高峰譲吉の発案と、実業家として名高い渋沢栄一らの後押しで創立した。その背景には第一次世界大戦における「危機感」があった。戦争に必要な技術、物資などを海外に頼らざるを得ない状況を打破するため、「自給自足」を成し遂げる必要があったのだ。
理化学研究所は産業の発達を図る為、純正科学たる物理学及び化学の研究を為し、(中略)、工業原料その他物資の尠(すくな)いわが国においては、学問の力によって産業の発達を図り、国運の発展を期する外はない。
当時の理化学研究所は、その目的をこうまとめている。学問の力、技術によって、物資の少なさを補っていこうという試みから、理研はスタートしたのだ。
本書の内容は、第三代所長の大河内正敏にスポットを当てつつ、その他の著名な科学者たちの人柄、人生にも触れられており、伝記を思わせるところに読み物としての面白さがある。
貴族院議員で食べることが大好き。身長が180センチはあった美丈夫。「理研を科学者の楽園」にした型破りなリーダー大河内正敏を筆頭に、鈴木梅太郎、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎、寺田寅彦など、傑出した才能をもった科学者たちの生い立ちにも触れられている。
また、理研には当時から女性研究者が多かった。日本最初の女性の国立大学生である黒田チカは紫根色素の研究で理学博士となり、丹下ウメは砂糖の過食の影響を研究して農学博士になった。他の大学から物理化学の研究室に入った加藤セチは「大学では男の研究者とは口もききにくかったのに、理研ではおおらかな空気」であったことに感銘を受けたそうだ。
男女問わず、様々な才能をもつ研究者が一堂に集まる「理研」であったが、常に付きまとっていたのは「財政面」での問題であった。そこで、研究から生まれた成果を、事業化し、それを販売する「理研コンツェルン」が誕生する。(後に理研産業団と名を変える)。
理研産業団は理化学研究所の研究を後援するための産業団である。それと同時に、理研において研究され、発明された事柄を工業化し、事業化して行くということにもその使命をもっている。
研究結果として生じた「理研ビタミン」や、「合成酒」などを販売して財政面を補い、理研は科学者の楽園として存続していくのである。
だが、太平洋戦争の前後では「自由な楽園」は失われていく。軍からの要請でウラン爆弾の研究を行うこともあった。戦時中は、日本においても「原爆計画」が存在していたのである。当時の日本の技術では、理論的には可能だと分かってはいたが、実現できる段階までいかないまま、終戦になった。
戦後、理研の研究員の中には、民間企業に入り日本の近代化を支えた者も多くいた。日産自動車の社長となった浅原源七や、ソニーの研究所長となってエレクトロニクス技術をリードした鳩山道夫などがいる。
著者は語る。
戦前戦後を通じて、理研の研究者は、大学、他研究所、企業に散って第一戦で活躍し、(中略)、戦後の日本を復興させた原動力となった科学技術のほとんどすべての分野を網羅してしまうものである。理研が供給した人材なくしては、今日の「技術大国」の繁栄は存在しなかったとすら考えられる。
現在、理研には冷ややかな視線が向けられているだろう。だが、その歴史と功績を知ることで、今まで理研が日本にもたらしてくれた恩恵を顧みてみると、理研へのとがった視線を多少は緩めることができるかもしれない。
文=雨野裾