【連載】大論争!哲学バトル Round 05 この世界に真理はあるのか?

公開日:2016/5/2



ソクラテス
真理とは何であろうか。確実に「ある」と言い切れるものは存在するのか。
誰もが一度は考えたことのあるテーマだろう。
この連載の最終回は、哲学史における最大の難問に、真っ向から立ち向かってみよう。
議論するのは、近代哲学の巨人、デカルトとヒューム、カント。そしてワシと同時代を生きたプロタゴラスの4名じゃ! 思う存分、「真理」について語ってもらおう! さあ登場!!


デカルト
真理か……。実は私は、真理と言えるものが何なのかわからなくなりかけた。来る日も来る日も、真理について探究を続けた。すると、今ある経験も夢かもしれないと思うようになってきた。我々が当然と信じている因果法則ですら神が欺あざむいているのかもしれないとの疑いが次々と頭に浮かんできて、とにかくわからなくなりかけたのだ。


ヒューム
私も、経験に依拠して真理を探究していった。しかしそうすればするほど、わからなくなる。私の先輩のバークリーは、「存在とは知覚されることである」と言ったが……。


デカルト
存在は、それ自体として存在するのではなく、人に五感によって知覚されることによって存在する、ということだね。


ヒューム
しかし私には、そもそも「知覚」をするメカニズム、「精神」すら、あるのかないのかわからなくなってしまった。


ソクラテス
ふむ。意外と二人とも謙虚で自分の無知に正直なんじゃな。
哲学者として誠意ある態度だと思うぞ。


デカルト
ソクラテス先生お得意の「無知の知」ですな。確かにヒュームのわからなくなる気持ちはよく理解できる。ただ私はヒュームとは違って、その懐疑を真理の探究のために使おうと考えた。疑っても、疑っても、疑いきれなくなった時、それでも残るものが、真理ではないかと。私はこれを「方法的懐疑」と呼んだ。この思考方法によれば「1+1=2」というような数学的真理さえ疑わしくなる。


ヒューム
「方法的懐疑」ですか。でも、私には疑うという行為そのものも経験を根拠にしているようにも思えるのだ。本当にその経験的事実は信じていいのだろうか。
デカルト氏が信じてやまないものとは何ですか?


デカルト
それは、「疑っている私自身という存在」である。疑っても、疑ってもこのことだけは譲れないということ。それは、疑っている私、今思考している私自身の存在である。こればかりはどんな懐疑論者も疑いえない。
「我思う、ゆえに我あり」だ。これだけは、全ての哲学における、第一原理として認めていいと思う。


ヒューム
「我あり」と言いますが、そう言い切れるのは、あなたが疑うことを何度も経験したことによって、いわば習慣による信念でしかないのではありませんかな。言い換えれば、経験の中で現れる「精神」とやらの作用で未来を予想した結果だ。その精神は果たして実体のあるものなのだろうか。


デカルト
いや、私は、精神の実体など証明するつもりはない。
まず「私の存在とは思考の中にある」ということだけが、私自身が思考の主体である以上、疑いえないのだ。


ヒューム
いや、私に言わせれば、精神の実体などない。そのようなものがあると、人間が信じているだけにすぎないのではないでしょうか。私達が「精神」や「自我」と呼ぶものは、ただの「知覚(様々な体験)の束」にすぎない。


カント
「知覚の束」……。素晴らしいです! 私はヒューム先生のこの言葉によって、独断のまどろみから目を覚まさせられました。


ヒューム
ほほう。ドイツ人のカントさんか。大陸の人間は、感覚的認識を軽視して、理性で何でも理解できると考える傾向にあるが、君は意外と柔軟なんだな。


カント
ええ、私はヒューム先生の経験論を知り、人間の理性を徹底的に分析、批判してみようと思いました。その結果、理性の力は有限で、人間の思考では絶対に解決できない命題があることがわかりました。


デカルト
フン。理性が有限だという具体例はあるのかね?


カント
人間が「無限」について考えると、絶対に解決できない矛盾にぶつかります。これを二律背反(アンチノミー)と言います。例えば、時間や空間に始まりと終わりはあるのか。物質は無限に分割できるのか。これらは、そうだとも言えるし、違うとも言える。これは人間の認識の枠組みには限界がある証拠であり、私達は真理をそのまま把握することはできないのです。どんなに理性を働かせて真理を探し求めて
も、その理性自体が完璧ではないのですから、真理にたどり着けるはずがないのです。


ヒューム
その通り! 理性だけを盲信したら、独断に陥る!


デカルト
理性を信じないとは……。


カント
ただしヒューム先生は、哲学が独断論に迷い込むことからは救ってくれましたが、懐疑論という別の暗礁に乗り上げさせてしまいました。


ヒューム
懐疑論で何が悪い? 仕方がないではないか。
人間には何もわからない。これが真実なのだから。


デカルト
「真実」? 今、真実と言ったかね? 
するとヒュームは、「人間には何もわからない」という一つの真理を知っていることにならないか?


ヒューム
(しまった!)
いやいや、それはあげ足取りでしょう……。


カント
いえ、それも「二律背反」の一例ですね。
結局、「人間には何もわからない」ということもわからない……と堂々巡りに陥って、懐疑論にはまると、思考はそこから何も進まなくなります。


ヒューム
とはいえ、独断的に間違った結論を出すことほど危険なことはない。
ここは何もわからない、ということで判断を止めておくべきではないかね。


カント
ええ、真理の正体については棚上げしましょう。ヒューム先生のおっしゃる通り、人間は真理を経験という色眼鏡を通してしか見ることができません。私は、人間が直接見ることはできない真理を「物自体」と呼んで、色眼鏡を通して見ている現象と区別しました。


ヒューム
ふむ。やっぱり何も確かなことはわからないということだね。
結局、私と同じ意見じゃないか。
もっとも私なら、真理があるという前提自体を疑うがね。


カント
ただし、私とヒューム先生の異なる点は、認識できない真理自体は存在すると想定する点です。
やはり、何かの真理を置かないと、我々の思索は一歩も進まないのです。


ヒューム
把握する能力もないのに、真理を仮定して何の意味があるのかね?


カント
いかなる真理も存在しないことにすると、人間社会に行動規範などなくなってしまいます。
人間の理性は確かに完璧ではありませんが、その働きは人類全員に普遍的なものです。
であるならば、人間の行動原理や道徳において、共通のルールや義務を見いだせるはずです。
例えば、殺人について議論したRound 02でも語りましたが、人間の命を敬うことは、何らかの条件や理由付けを必要とするものではなく、生まれつき誰もが従うべき無条件な義務(定言命法)であると思っています。このような義務は、人間に普遍的なもの、つまり真理と言ってもいいのではないでしょうか。


プロタゴラス
私は近代とは程遠い、古代ギリシャの人間だが少し参加してもよろしいかな。


カント
(面倒な人が入ってきたな……)。はいはい、どうぞ。


プロタゴラス
カントは人間の道徳には普遍性があると言いたいようだが、本当に人間に、真理などというものはあるのだろうか。
私は、各人が各人の感覚に基づいて、その時々に「相対的」に行動していると考える。


カント
いや、例えば人殺しなどの場合、感覚的に「痛みがある」とか「痛みがない」などの理由付けをもとに、禁止されるものではない。例えば、駅のホームに人が倒れていたとしたら、私達は、無条件に助けてしまうでしょう? 別にその人を助けたらお金がもらえるかもしれないとか、助けないと非難されるかもしれない、などと考えているわけではない。


ヒューム
それは、「人助け」という物語を何度も読んだり見たりした「経験」をもとに、「助けるべき」と判断しているだけではないのか? 仮にたった一人で生きてきて、人助けをしたりされたりという経験がなければ、そのような行動を取ろうとはしないだろうよ。


プロタゴラス
そもそも例外なく人助けをするものだろうか。そう断言してしまうことは危険ではないかな。
どうもカントは道徳を前提に置きすぎている気がする。
歴史を振り返れば凶悪な犯罪者はおり、人を傷つけることで快楽を得る人もいる。それは厳然たる事実だ。例外なく無条件で行われる規範があるというのは、カント君の理想の押しつけではないかね。


カント
いや、決して理想の押しつけではありません。現に善なる行為を人々が行ってきたという事実があります。
少ない例外を持ち出して、善意志を否定することは、人間の尊厳をあまりに軽視していませんか。


プロタゴラス
その善というやつも、実は相対的なものなんだよ。ある人の正義は、他の人にとっては、まったく別なものになる場合もある。私と同時代を生きたトラシュマコスも「力こそ正義」と言っておる。トラシュマコスの主張に従えば、力ある者が弱い者を支配することが正義や真理ということになってしまう。昨今の世の中を見てみたまえ。対立する紛争地域において、どちらの勢力が正義か決められるかね?


カント
あなたの相対主義は、結局、何でもありではないか。
それは何も言っていないに等しいです。


プロタゴラス
私が言っているのは、「人間は万物の尺度である」ということだ。
ただし、実際には人それぞれ尺度も違うから、いかなる真理も成り立ってしまうのだが。


デカルト
いかなる「真理」も成り立つだと? それは、もはや詭弁じゃないか!


プロタゴラス
まあ、私のことをそういって非難する人も少なくないようだが……。
しかし、相対主義は、キリスト教神学や唯物論のような一見、揺るぎない世界観をも、時に相対化して見せることができるのだ。


デカルト
懐疑論よりも始末に負えないな。


プロタゴラス
まあ、聞きなさい。例えば21世紀の現在、アメリカという大国は、グローバリゼーションの美名で世界の価値を一元化しようとしていると聞いた。一方、アメリカに戦いを挑むイスラム過激派は、自らこそが正義だという。つまり、双方の正義が存在するのだ。


カント
様々な立場があったとしても、人類に共通する普遍的な道徳法則はあります。
アメリカ人もイスラム過激派も、人を殺すことが良いか悪いか問われれば、悪いと答えるはずです。


プロタゴラス
しかし結局、人殺しは起こっておるではないか。
その現実との食い違いをどう説明するんだね。


カント
その現実を是正しなくてはなりません。
目の前に見える現実が真理ではないのです。
私達は、少なくとも人間の行動規範については、一つの揺るぎない真理から世界を見つめ直そうと努力しなければならない。
それが哲学者の役割であるはずです。


ソクラテス
真理とは何であろうか。確実に「ある」と言い切れるものは存在するのか。
誰もが一度は考えたことのあるテーマだろう。
この連載の最終回は、哲学史における最大の難問に、真っ向から立ち向かってみよう。
議論するのは、近代哲学の巨人、デカルトとヒューム、カント。そしてワシと同時代を生きたプロタゴラスの4名じゃ! 思う存分、「真理」について語ってもらおう! さあ登場!!

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<著者プロフィール> ●畠山 創:北海道生まれ。早稲田大学卒業。専門は政治哲学(正義論の変遷)。現在、代々木ゼミナール倫理、政治・経済講師。情熱的かつ明解な講義で物事の本質に迫り、毎年数多くの生徒を志望校合格に導く。講義は衛星中継を通して約1000校舎に公開されている。「倫理」の授業では哲学的問いを学生に投げかける「ソクラテスメソッド」を取り入れ、数多くの学生に「哲学すること」の魅力・大切さを訴え続けている。

岩元 辰郎●フリーイラストレーター。法廷バトルアドベンチャー『逆転裁判』シリーズや『バクダン★ハンダン』などのゲームや、アニメーション『モンスターストライク』等のキャラクターデザインを担当している。