化粧は夫や周囲との関係を円滑にするためのものだった!? 意外と知らない化粧の歴史

美容

公開日:2016/6/22


『化粧の日本史:美意識の移りかわり』(山村博美/吉川弘文館)

 人間はなぜ化粧をするのか、考えたことがあるだろうか。文明が始まると共に、人類は自らの身体に化粧をほどこしてきた。「世界中で化粧をしない民族はいない」と言っても過言ではないほどだ。

 化粧の目的の第一は「美しくなりたい」という人間の本能的な美的欲求からきている。なぜ美しくなりたいのかを突き詰めれば、「身だしなみを整えたい」「異性の気をひきたい」「変身したい」などの無数の理由が挙げられるが、その他に、顔や身体を自然環境から保護するといった実用的な理由もある。さらに、化粧は特定の集団への帰属(階級、年齢、未既婚など)を区別する社会的な表示機能を持つこともあった。

 化粧は、単独の目的で、あるいはさまざまな目的が組み合わさり、世界各地で古代より行われてきたもの。とても、奥深いものなのだ。

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化粧の日本史:美意識の移りかわり』(山村博美/吉川弘文館)は、日本人の生活に密着していながらも、長い間学問として注目されてこなかった化粧の歴史を、古代~戦後の通史としてまとめた一冊である。

 日本の化粧の色は、顔に塗る白粉(おしろい)の白、口紅や頬紅の赤、お歯黒や眉化粧に用いる黒の三色より成り立っている。

 その中で、現代人にとって馴染みがないのは「黒の化粧」の「お歯黒」だろう。黒の化粧の登場は3世紀末に書かれた『魏志倭人伝』の中にある。歯を黒く染める「お歯黒」の風習を思わせる記述が見受けられるのだ。

 その起源は南方系の民族が日本に渡来した際に持ち込んだという説や、日本で独自に発達したという説、インドから中国や朝鮮半島を経由して伝わったという説など諸説あるが、はっきりと分かっていない。

 脈々と受け継がれてきた黒の化粧だが、江戸時代の中頃には「女性の社会的属性などを可視化する機能」が重視されるようになる。庶民の女性の場合、歯が白く、自然に生えた眉があるのは「未婚」を表し、お歯黒をしていれば「既婚」。さらに眉を剃っていれば「子持ち」と、見た目で女性の立場がある程度分かるようになっていた。

 現代人の感覚からすると、歯を黒く染めるという美的感覚はまったく分からない。さらに眉まで剃り落としてしまうと、感情の読めない仮面のようになってしまわないだろうか。だが江戸時代の化粧は「身だしなみ、礼儀のひとつ」でもあった。そう考えると、お歯黒を通して女性の「社会的位置」、つまり、当時の女性が求められていた「礼儀」を推測することができるかもしれない。面白い研究テーマだと思う。

 話が逸れたが、現代にとって「奇妙な」黒の化粧は西洋風の化粧が入ってくる明治時代まで綿々と続いた(大正時代に入ってからも、一部では行われていたそうだ)。明治時代から、西洋の文化が入ってくると共に、洋風の化粧も誕生した。現在でも化粧品メーカーとして名高い「資生堂」「花王」も、明治からの老舗である。この時代に入ってからの大きな変化は、なんといっても「白粉」だ。

 その名の通り、従来の白粉は「白色」しかなかったのだが、明治20年代後半には「肉色」が登場する。40年頃には、最近の傾向として顔の色を赤くみせる「紅(にく)白粉」と、化粧下地クリームを使う女学生が増えたという新聞記事も残っており、流行に敏感な女学生たちは、「新しい洋風メイクをおしゃれと感じる西洋的美意識を持っていた」と考えられる。この頃から、現代人でも受け入れられる化粧が普及してきたのだ。

 だが、その化粧はあくまで「社会規範として、あるいは夫や周囲との関係を円滑にする手段として必要性が語られていた」と著者は語る。外見は洋風化してきても、内面は江戸時代と同じ「自分の好みより他者の目を意識した化粧が求められた」のだ。

 大正時代には、女性の社会進出にともない、「化粧時間の短縮」を目的とした新しいタイプの白粉も登場する。大正7年に発売された「レートメリー」は、化粧下地と白粉の機能をひとつにしたもの。今でいうところのBBクリームのようなものか。白粉の色も、白、肉色以外のバリエーションを増やしていく。

 戦後、アメリカが統治する占領政策の影響を受け、彫りの深い「外人顔」が日本人女性の憧れとなり、顔を立体的に見せるため、陰影をつける化粧がもてはやされた。

 昭和末期には、内面重視の「礼儀としての化粧」が、外面重視の「自己実現のための化粧」という価値観へと変貌していき、現代の化粧に受け継がれ、今に至っている。

 本書を読めば、普段何気なくしている化粧の見方が変わってくるだろう。化粧とは、偶発的に流行する、単なる「おしゃれ」ではないのだ。

文=雨野裾