竹内結子の小悪魔ぶりが話題に!! 大河ドラマ『真田丸』の淀殿ってどんな人? その最期とは?
公開日:2016/7/11
現在、絶賛放送中の大河ドラマ『真田丸』で、「小悪魔ぶり」が話題となっている登場人物、淀殿(よどどの)がいる。竹内結子演じる淀殿(本名は茶々)は、天真爛漫な反面、堺雅人演じる真田信繁に気がある素振りを見せ、小日向文世演じる豊臣秀吉を骨抜きにしていることから、「小悪魔ぶり」を発揮させている。
一方で、闇を感じさせる発言や雰囲気を醸し出すなど、中々つかみどころのない、魅力的なキャラクターだ。
では実際、淀殿とはどんな人物だったのか。歴史的に考察してみると、『真田丸』がさらに面白くなること間違いなしだろう。例えば、以前の放送の中で、秀吉の妻になると決めた淀殿が信繁に放った「きっと同じ日に死ぬ」という驚きのセリフも、歴史を知っていれば「ぞくり」とする言葉だったのだ。
そこで、今回オススメしたいのが『淀殿 われ太閤の妻となりて』(福田千鶴/ミネルヴァ書房)という人物評伝書だ。
淀殿を調べるための資料はそれほど多くない。ドラマや小説の影響により、史実ではない「淀殿像」が広まっていることも事実だ。しかし本書は、そのような偏見や推察ではなく、多くの一次史料(当時の人が残した事実に近いと考えられる有力な史料)から真の淀殿像に迫っている稀有の一冊である。
はじめに、淀殿のプロフィールをご紹介しよう。
淀殿(1569~1615年)の本名は浅井茶々(当時は結婚しても実家の名字を用いる)。近江の戦国大名浅井氏と、織田信長の妹・お市の間に生まれる。戦乱により、二度の落城を経験。一度目の落城では父と兄、二度目の落城では義父と実母を亡くす。その後、秀吉の寵愛を受け、鶴松、秀頼という二人の男児を産む。秀吉の死後、大坂城で権勢をふるったが、大坂の陣で秀頼と共に自刃した。
さて、淀殿と言えば「悪女」「淫乱」といった良くないイメージがつきまとっている。本当のところ、淀殿はどういう女性だったのか。そのことを考える上で大切なのが、「淀殿は秀吉の側室なのか?」という問題だ。
本書では淀殿を秀吉の「妻の一人」として結論づけている。秀吉には長年連れ添った寧(ねね)という妻がいたので、「寧以外は全員側室」だと思われがちだが、婚姻が一夫一妻多妾制になったのは江戸時代以降のことだ。秀吉の時代はまだ一夫多妻制だった。ゆえに、秀吉の妻は複数人いてもおかしくない。
「妻」か「側室」か、という問題は、どうでもいいように思えるかもしれないが、とても重要なことだ。「妻」である以上、「妻」としての役割があり、「側室」とは待遇や身分も異なってくる。さらに「愛妾」という肩書が、淀殿を「秀吉を美貌でたぶらかした悪女」というイメージを増幅させているようにも思う。
当時の史料を追っていくと、淀殿のことは「室」(=妻)だと記述されている。よって、淀殿は「美しく若いだけで愛されていた側室」なのではなく、「妻としての責務を務め、正室の寧と共に豊臣家を支えてきた妻」なのである。
お次に、淀殿のイメージをすこぶる悪くしているのが、「長年子どものできなかった秀吉の子どもを産んだこと」だろう。秀吉には大勢の妻、側室がいたが、誰一人として子どもを産んでいない。となると、問題は秀吉にあることは間違いないと思われる。なのに、淀殿は秀吉の子を産んだ。そのことで、淀殿が他の男と密通したのではないかという憶測が飛び交うようになった。
大河ドラマでも題材になった「落首事件」(何者かが聚楽第の表門に落書きの貼り紙をしたという事件)は事実起こったことらしく、その落首は淀殿の懐妊を揶揄する内容のものだった。当時の人も「本当は違う男性の子どもなんじゃ……」と疑っていたわけで、その疑惑が「淫乱な女」のイメージを根深くさせている。
実際のところ、本当は誰の子どもだったかは分からない。真相は闇の中だ。しかし、秀吉や寧がその子を「後継者」として扱っていた以上、淀殿の不義を疑い、「淫乱な女」というレッテルを張るのは、考え直すべきではないだろうか。
淀殿を取り巻く「偏見」ではなく、「史実」から浮かび上がる彼女の素顔を明らかにしたいのなら、徹底した客観、史料主義の本書が大いに役立つだろう。淀殿の「最期」を知りたい方にも、ぜひご一読いただきたい。
文=雨野裾