江戸時代には、妖怪も娯楽の一つだった! 怖さだけではない、妖怪の魅力とは?

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/14

『ときめく妖怪図鑑』(門賀美央子:文、アマヤギ堂:画、東 雅夫:監修/山と渓谷社)

 小生は妖怪に対し、あまり怖いというイメージが持てないでいる。それは子供と遊ぶ座敷童の話や、『ゲゲゲの鬼太郎』で子泣きじじいたちに馴染んだ為だろうか。以来、小生は妖怪に対して怖さより楽しさを求めていた。そんな折にこの『ときめく妖怪図鑑』(門賀美央子:文、アマヤギ堂:画、東 雅夫:監修/山と渓谷社)に出会う。本書は民俗学や博物学、歴史的見地からの考察もあり、児童書やサブカル本とはまた趣の違う、大人向けの妖怪入門書といえる。そして、アマヤギ堂による図版「妖怪型録」がまた楽しい。日本画絵具で描かれる妖怪たちは、柔らかな色彩で優しい雰囲気なのだ。

 本書によると妖怪とは、古来より人々が原因不明の「あやしい」現象に対して名付けたものと考えられている。古代の人々にとっては自然の成り立ちもまた、その「あやしい」現象だったようだ。例えば地誌『風土記』に国土を作った巨人伝説がある。ダイダラボッチなどと呼ばれる巨人たちだ。呼び名こそ違えど、それに類する民話は各地に伝わる。中でも有名なのはダイダラボッチが土を盛って富士山を作り、掘り出した跡地は琵琶湖になったという話だろう。狭い日本にスケールの大きな話である。そしてこれらが、妖怪の始祖とも考えられる。

 また本書では、中世の怨霊伝説や付喪神(つくもがみ)についても考察。怨霊といえば、菅原道真や平将門がすぐに思い浮かぶが、その人物の影響力を表したとも考えられる。一方、付喪神というと、百年経った古道具に精霊が宿り悪さをするという妖怪だが、どうもこれが怨霊と比べて怖さを感じない。考えてみれば、妖刀といったものでもなければ、日常生活の古道具自体に影響力があるはずもなく、大した話にはならないのだろう。

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 本書では国際日本文化研究センター所蔵「化物婚礼絵巻」の一部を掲載していて、そこに描かれた提灯の付喪神が、自身で自身を折りたたむ姿はまるで「ゆるキャラ」のよう。また、その提灯のそばに、手足の生えた琵琶の付喪と、それに飼い犬のように引かれる琴の付喪神がいる。これは京都真珠庵所蔵の「百鬼夜行絵巻」にも描かれていて、小生にはとても印象的である。

 さらに次は江戸時代。この頃になるとその時代性なのか、妖怪たちは畏怖というよりキャラクター性を与えられ、種類も豊富になっていく。現在、お馴染みとなった妖怪たちのイメージは、江戸時代に生まれたようだ。浮世絵師による妖怪画も盛んで、かの葛飾北斎や歌川国芳も多数の作品を残している。そんな浮世絵師の中でも、妖怪画の基礎を作ったといわれるのが「鳥山石燕(とりやませきえん)」である。

 恥ずかしながら、本書で初めて知った石燕。調べてみると彼は安永5年(1776年)に著した「画図百鬼夜行」によって妖怪絵師として地位を確立したという。故・水木しげる氏も石燕の画を参考に妖怪のイメージを固めたということだから、その影響は計り知れない。さらに石燕は自身の妖怪画集にオリジナルの妖怪を描いている。毛むくじゃらの妖怪「毛羽毛現(けうけげん)」と、姿形は美しい娘でありながらも、顔だけは爺さんの「否哉(いやや)」が、その代表として本書の「妖怪型録」にも取り上げられている。石燕自身は、どんな思いでこの変な妖怪を生み出したのだろうか。

 冒頭で小生は「妖怪にあまり怖いイメージが持てない」と書いたが、本来は畏怖の念から想像された存在だから、古代からの人食い鬼や怪談の化け猫など、恐ろしいのが妖怪の基本だろう。だが、この石燕も怖いというよりも滑稽に妖怪を描いている。江戸時代は既に妖怪へ娯楽性が与えられていたのを知り、小生以外にも、そんな見方をする人たちがいたのだなと安心する。長い間、怖がられつつも楽しまれ続けた妖怪たち。さて、これからどんな妖怪を人々は生み出し、伝えていくのだろうか。未来に生まれる妖怪にも会ってみたい。

文=犬山しんのすけ