負けてもただの負け組にはなるな! しぶとく江戸の世を生き抜いた敗将に学ぶ、厳しい時代の生き延び方
公開日:2016/8/19
関ヶ原の合戦は、よほど歴史が苦手な人でも、日本中の武将が東西に分かれて争った「天下分け目の合戦」だったということを知っているはずだ。だから、その合戦で負けた西軍の武将はひとり残らず処分され、歴史から消え去ったと思っている人が多いかもしれない。しかし、実は、一時的に憂き目を見たものの、後に復活してしぶとく江戸時代を生き抜いた武将もいた。同じ関ケ原の敗将でありながら、両者はどこが違ったのだろうか? 今回はその理由に迫るため『「その後」が凄かった! 関ヶ原敗将復活への道』(二木謙一:編著/SBクリエイティブ)を紹介する。
負けを体験したことで強くなった戦国武将
この本では、関ヶ原敗将の復活劇を語る前に、どんな武将が戦国時代を生き抜けたのかという話をしている。実は、戦国時代には負けを知らない常勝の武将など誰もいなかった。軍神といわれた上杉謙信や武田信玄も、織田信長や豊臣秀吉も負け戦を経験し、敗戦から学んだことを次の戦いに活かしていた。中でも、戦国の世を最後まで生き延び、江戸幕府を開いた徳川家康は、負け戦の屈辱を絵師に描かせ、目に焼き付けていたほどだ。彼らの強さは、負けないことよりも命を落とさないことを重視し、負け戦の中から学んだことを活かせる「次の機会」を作り出すことに全力を注いだ点にある。
自滅するか復活するかは運だけでは決まらない!
関ヶ原の敗戦後、改易になったまま滅亡した大名家が90家もある。つまり、復活できた大名家はほんの一握りに過ぎない。しかも、ほとんどが1万石前後の小大名としての復活だった。そんな中、10万石を超える大名として復活できた敗将が2名いる。立花宗茂と丹羽長重だ。彼らは他の武将とどこが違ったのだろうか? この本の言葉を借りるなら「敗者としての体験を次に活かせたから」だ。
立花宗茂は、領地を奪われ困窮しても詫びを入れ続け、大坂の陣の前に豊臣方からどんなに誘いを受けてもなびかず、ぶれない姿勢を見続けた。一方、丹羽長重は、義兄弟である秀忠の口利きで復活したのだが、それに甘んじず、持ち前の築城技術を関東の守りに活かしたことが評価され、生き残ることとなる。
関ヶ原の合戦以前は、世の中の形勢がまだどちらに転ぶかわからない状況だったから、豊臣への恩義や個人的な情によって西軍に付いた武将も多かった。しかし、関ヶ原後は違う。徳川に流れが移っていることは誰が見てもわかったはずだ。時流を冷静に受け止め、いくら家康から煮え湯を飲まされても、自分は徳川の世で生きていくのだという姿勢を貫いたのがこの2名だった。裏切りが日常茶飯事だった戦国の世を生きた家康が復活を許したのは、「こいつは裏切らないだろう」と信じられたからかもしれない。
人情だけではない本当の人間関係を作れた者が生き延びる
10万石に届かずとも、一旦領地を失いながらも大名として復活できた武将には共通している点がある。窮地に立たされた時に手を差し伸べてくれる人がいたり、見捨てずに従ってくれる家臣がいたりした点だ。ただし、姿勢に一貫性がなかった人や、口利きをしてくれた相手に恩を返すことなくただ甘えてしまった人は、一度復活を果たしても逆戻りして浪人として一生を終えたり、再度領地を失ったりしている。結局、情に流されるだけで、しっかりとした人間関係を作れなかった人は、昔の恩義に振り回されて時流を読めなかった敗将たちと同じ道をたどってしまったのだ。
今の時代でも活かせる敗将の奥義
今の時代、リストラや会社の倒産などによっていつなんどき憂き目に遭わされるかわからない。大きい敗戦で初めて慌てても遅いのだ。そこから復活できるかどうかは、それまでに蓄えてきた知識や人間関係によるところが大きい。大敗を経験する以前の細かい負けをどうとらえてきたか、そしてどう次に活かしてきたかを考えてみよう。人情に流されてはいけないが、周りとの信頼関係は重要だ。救いの手を差し伸べてくれる人がいなければ復活はできないことに早く気が付いておきたい。
文=大石みずき