相模原の殺傷事件に向き合うために……いま読むことに意味がある、脳性マヒ障害者・横田弘の『障害者殺しの思想』
公開日:2016/9/12
はっきり言おう。
障害児は生きてはいけないのである。
障害児は殺されなければならないのである。
この、あまりに凄惨な文章の書き手は横田弘(1933~2013)。脳性マヒ(CP)の障害を持ち、CP者の団体「青い芝の会神奈川県連合会」の一員として、バス乗車拒否に対する闘争を繰り広げ、優生保護法改定や養護学校義務化にも反対。障害者の生存権確立運動を展開した人物だ。
引用した上の文章が収録されている本は『障害者殺しの思想 増補新装版』(現代書館)。1970年に障害児を殺害した母親への減刑嘆願が起こったときに、それに異議を申し立てた文章だ。横田が言いたいことは、以下のようなことである。
マスコミは障害児を抱えた家庭を「不幸」であるように報じていること。その「不幸」を報じることで世間に生まれるのは、自分の隣にいるかもしれない障害児への想いではなく、「自分が障害児を生まなかったことへの『しあわせ』」であるということ。その報じ方の中に、障害者を抹殺していく論理が隠されていること。障害児を持つ家族が社会から疎外され、それが障害児殺しにつながったのではないか、ということ。障害児殺しの事件が起きてから減刑運動をはじめ、それが善いことであるように振る舞う人がいるが、なぜ事件が起きる前に、障害児とその家族が穏やかな生活を送れるような温かい態度がとれなかったのか……ということ。
横田弘は運動に関わる以前から詩作をしていた人物でもあり、ときには逆説的な言葉や、健全者・障害者を挑発するような言葉も使う。本書の表紙で、裸一貫で路上に座っている男が彼本人だが、むき出しの怒りや悲しみを言葉に乗せて、読者の心へと迫ってくるのが彼の文章だ。
また本書には、先の相模原障害者施設の殺傷事件を連想する文章も多い。たとえば以下の2つの文章などは、逮捕された容疑者が手紙に記していた思想を思い出してしまう。
日本的資本主義の下にあっては、物を作り出すことができる者、物を作り出して資本家を喜ばせる力を持っている者だけが正しい存在であり、その力の無い者は「悪」だとされる。
「正義」とは絶対多数者の論理であり、「抹殺する側」が「抹殺される側」の論理を屈服させる為に用いる名目である。現代社会にあっては「健全者」は絶対多数であり、その絶対多数の思想と論理こそ「正義」と名付けるのである。
なお昨年には、青い芝の会神奈川県連合会の人々の生活・思想をカメラに収めた原一男監督のドキュメンタリー映画『さようならCP』もDVD化。横田弘の障害や思想については『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』(横田弘, 立岩真也, 臼井正樹/生活書院)という本も今年3月に刊行されている。
『われらは愛と正義を否定する』の中で横田は、自分が生きていることで年間600~800万円の経済的負担を生み出していることを述べ、対談相手に「経済的にみても、社会にとって障害者の存在っていうのはやっぱり迷惑ではないですか。どう思います?」と問いかけている。
相模原の事件後に、この質問の重さに気付かされるのも本当に情けない話だが、この問いについて考え、答えることは誰しもに求められることだろう。横田は「障害者と健全者との関り合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないのだろうか」と書いている。彼の文章と闘い、社会と障害者の関わりについて考えることが今こそ必要だ。
文=古澤誠一郎