佐藤愛子がヤケクソで書き上げたエッセイ集には90年間生きた人だけが得られる「人生」がつまっていた!
更新日:2017/12/1
元気に長生きすることは、ヒトとして憧れる。しかし、それは長生きを夢見ている若者(60歳くらいまで)だけであって、長生きしている当の本人は、あまり良いように思ってないのかもしれない。『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子/小学館)の著者である佐藤愛子氏は90歳を超える長生きをしているが、本書で「加齢で足が重くなり、ノロノロ歩けばつまずき、後ろから来た自転車にベルを鳴らされ舌打ちもされる」と嘆いている。誰かに「90歳といえば卒寿じゃないですか!おめでとうございます」と祝われても「卒寿!何がめでたい!」という心境に至っているのだから、我々は長生きの憧れに対して思い直した方がいいだろう。
本書は、女性セブンで隔週連載されたエッセイを1冊にまとめたものだ。88歳で書き上げた長編小説『晩鐘』のあとは、のんびり暮らしていたらしいが、親しい人には先立たれ、ちらほら残っている人も体調が芳しくなく、人付き合いが減ってウツウツと過ごしていたとき、たまたまきた仕事が本書のエッセイだったという。したがって、ブランクで錆びついた頭を動かすため、ウツウツとした気分のため、半ばヤケクソで書き上げた内容らしく、本書の至るところに怒りや嘆きがつまっている。
せっかくなのでエッセイを1つ紹介したい。「覚悟のし方」という章だ。佐藤氏は新聞の「人生相談」の愛読者だそうで、ある日の新聞に載せられた人生相談を取り上げている。その相談内容は、20代の女性が40代の男性と本気で結婚したいと思っているが、家族から反対されて困っているというものだ。本書では、相談者と回答者のやり取りを載せ、その上で佐藤氏の見解を述べている。印象強かったのは、佐藤氏の「覚悟」である。それを読者も読んでほしい。ちょっと長いが抜粋する。
「がんばってください。ご両親が会ってくれるまで何度も彼に来てもらってください。あなたも一緒に許しを請うてください。あきらめずに何度も何度も、です。結婚は折り合ってするものではありません。これまでご両親に向けていた愛情のすべてを彼に切り替えることです(中略)それほどの覚悟と勇気がなければ結婚するものではないのです。それでも彼と添い遂げたいというなら、一生、その意志を曲げないと誓ってください」
いや、これはむつかしい。私は思う。歳月は覚悟も勇気もなし崩しにしてしまう容赦ない力を持っている。私は九十年の人生でまざまざとそれを見てきた。恋も熱病である限りやがては熱は下がることも。それが人間というものであり、「生きる」とはそういうことなのだ。といって私はこの結婚に反対はしない。やがてこの熱病の熱が下がった時にどういう事態がくるか、だいたいの想像はつくけれど、「どうしても結婚したいのなら、すべての反対に目をつむって覚悟して進みなされ」という気持ちだ。しかし同じ「覚悟」でも最相女史のいわれる「一生意志を曲げない覚悟」ではなく、長い年月の間にやがて来るかもしれない失意の事態に対する「覚悟」である。たとえ後悔し苦悩する日が来たとしても、それに負けずに、そこを人生のターニングポイントにして、めげずに生きていくぞという、そういう「覚悟」です。それさえしっかり身につけていれば、何があっても怖くはない。私はそんなふうに生きて来た。そうして今の、九十二歳の私がある。
読者は「今」という「自分」がどれだけ曖昧か考えたことはあるだろうか。私は何度も経験している。今だってそうだ。「絶対に売れっ子放送作家になってやる!」と息巻いて上京してきたが、今やライターの仕事に手を出し、他の職種にも手を出し、「何でも屋」になってしまった。自ら望んだので欠片の後悔もないが、2年前の自分が見たら「放送作家の仕事だけせえよ!」と怒り狂うだろう。
「今」の自分が「これだ!」と思って行動しても、1秒過ぎれば「今」は「過去」に変わり、「あのとき考えていたことは間違っていた。今だから分かる。これが正しい」と考え直して、「未来」の自分が「今」を信じて「過去」を踏みつぶして行動していくのである。「そんなアホな」と思う方もいるだろうが、それくらい人間は「今」を信じて生きている。「今」という点の連続が複雑な人生の軌道となり、振り返れば目も当てられぬ紆余曲折の足跡となって繋がっている。前を見れば歩んだ者だけが見える景色がおぼろげに形をなしてくる。これが人生だと思う。これが人間の性だと思う。佐藤氏は本書のエッセイをヤケクソで書いたと述べているが、そんなことはない。歩みを進めた者だけが得られる「人生」がつまっている。本書は『九十歳。何がめでたい』というタイトルだが、90年間覚悟を持って生きた人の話をうかがうことができるのは、私たちにとってありがたく、めでたいことだ。
文=いのうえゆきひろ