七万人の命と百六十四人の命は平等か? 全世界で論争を巻き起こしている問題作『テロ』

社会

公開日:2016/9/28

『テロ』(フェルディナント・フォン・シーラッハ:著、酒寄進一:訳/東京創元社)

 良心と法―。人間が社会生活を営むときに、尊重されるべき二つの概念は互いが互いを支え合っていると信じられている。良心があるから法は守られ、法は良心を守っていると多くの人々は疑っていないだろう。しかし、仮に片方を守ることがもう片方を切り捨てることになるのだとしたら? そして、そんな状況が来るはずはないと断言できるだろうか?

 世界的ベストセラー『犯罪』でその名を轟かせたフェルディナント・フォン・シーラッハ初の戯曲、『テロ』は世界中で物議を醸している問題作だ。「ある事件」を審議する法廷を通して、読者は良心と法を天秤にかけることを強いられる。誰もがページをめくりながら、答えなき問いと格闘することだろう。

 物語は裁判の開廷から始まる。あるドイツ空軍少佐を裁くための裁判だ。彼の罪状は次の通りである。

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 ドイツ上空で旅客機がテロリストにハイジャックされた。七万人の観客がいるサッカースタジアムに自爆テロをしかけるためだ。空軍による警告射撃も効果がなく、少佐たち現場の軍人は旅客機の撃墜を進言する。しかし、国防大臣からの指令は「待機」だった。ついに降下を始めた旅客機に対し、少佐は独断でミサイルを発射する。かくして七万人は救われた。百六十四人の乗客の命と引き換えに。

 百六十四人の殺人罪で起訴された少佐の行動について、法廷ではさまざまな検証が行われる。乗客がテロリストを取り押さえる可能性はなかったのか? 機長が土壇場で旅客機の方向を変える可能性はなかったのか? そもそもどうしてスタジアムの七万人を退避させようとしなかったのか?

 検察官の追及は容赦なく、緻密だ。元々敏腕弁護士として多くの重大事件の弁護を引き受けてきたシーラッハらしく、数々の判例や法例が引用され、臨場感をもって物語は進んでいく。何より、この戯曲でシーラッハは観客(読者)が傍観者の立場をとることを許してくれない。なぜなら本作の上演において、観客は法廷の参審員に指名され、少佐が有罪か無罪かを決めるのは観客の投票に委ねられるからだ。よって、本作には有罪判決と無罪判決、二通りの結末が用意されている。いずれの結末を望むか、あくまでも当事者として、観客は少佐の行動に向き合うことを余儀なくされるのだ。

 そう、当事者意識とは、本作の焦点でもある。大勢を救うためなら、より少ない人数の命を犠牲にすることも致し方ないと自らの良心を信じて疑わない少佐だが、家族についての質問が飛ぶとき初めて言葉に迷いが見える。旅客機に少佐の家族が乗っていたとして、それでも撃墜したのか? 少佐は答えることができない。

 それでも、弁護人は少佐の良心と正義を強調し、無罪を訴えかける。対して検察官は最終弁論でアメリカの法哲学者、ジュディス・ジャーヴィス・トムソンの提案した例を引用する。大勢を乗せた貨物列車が暴走し、あなたが別線路に引き込まなければ乗客全員が死ぬとする。しかし、別線路には五人の作業員がいた。それでも、多くの人は迷わずに列車の進路を変えるだろう。しかし、別線路に引き込むための転轍機(てんてつき)がないとして、代わりに隣には太った男がいた。彼の体なら列車を止められるかもしれない。

といっても、その男を突き落とすのは容易ではない。男はとても太っていて力もあるから。つまり事前に殺す必要がある。たとえばナイフで。そうすれば男を線路に落とすことが可能になる。そして乗客を助けられる。参審員のみなさんならどうしますか?

 多くの人は太った男を殺すよりも貨物列車を見捨てることを選ぶだろう。しかし、五人の作業員を見殺しにするのも、太った男を殺すのも、大勢のために少人数を犠牲にするという点では大差がないはずだ。

モラルの問題に確実なことなど一切ないのです。

 だからこそ、社会においては法が良心よりも優先されるべきだと検察官は説く。おそらく多くの観客(読者)が、最初は少佐に感情移入し、肩入れしながら法廷を見守ることが予想されるが、検察官の巧みな論理に気持ちが揺らぐのを感じるだろう。

 有罪の結末、無罪の結末、いずれを選んでも胸がすっきりすることはない。しかし、ふだん意識することのない良心と法についての問題を当事者として考える時間は、社会のあり方を考え直す貴重な体験となるはずだ。

文=石塚就一