死んだ犬を捨てた川に、次男も捨てた…家庭という密室で殺される子供たち―。虐待家庭の「核」に迫る戦慄のルポ

社会

更新日:2017/3/27

『「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち』(石井光太/新潮社)

 一匹の蝶の羽ばたきが、地球の反対側で嵐を起こすかもしれないことを「バタフライ効果」と呼ぶ。ほんの些細な出来事が、重大な結果をもたらす可能性と、それを予測することは誰にも不可能だという思考実験であり、フィクションの作品においては過去を改変して、より良い未来にしようとする題材として使われることが多い。

 ノンフィクションの『「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち』(石井光太/新潮社)を読んで、この用語を連想したのは、裁判では明らかにならなかった事柄が著者の丹念な取材によって分かり、つい事件を防げたのではないかという気持ちが湧いてしまったからだ。

 本書は、5歳の子供をアパートに放置して餓死させた『厚木市幼児餓死白骨化事件』(ネグレクト)、2度にわたって出産した嬰児の遺体を天井裏や押し入れに隠した『下田市嬰児連続殺人事件』(嬰児殺し)、3歳児をウサギ用ケージに監禁して死亡させながら遺体を遺棄して未発見の『足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件』(DV/家庭内暴力)を追った取材記である。

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 裁判の傍聴や加害者への面会はもちろん、その生家への訪問や親類縁者への取材を通して、殺された子供たちを含め3世代の生育歴を詳らかにしており、読むと加害者たちもまた被害者なのではないかと思えてしまう。

 例えば、加害者が小学生の頃に母親が精神の病気を患い、夜中に窓を開けてフライパンを打ち鳴らすといった奇行をしているのに父親は我関せずだったとか、加害者の祖母が金銭への執着心が強く、自分への児童手当を母親から祖母が取り上げて遊興に使うのを目の当たりにして育ったというような話が、それぞれの事件で出てくるのだ。程度の差こそあれ、似たような境遇の中で育っても、事件を起こさない人はいくらだっていると頭では分かっていながら、普通の人が鬼畜に豹変するというよりは、理由があって鬼畜になったのだと理解するほうが、すんなりと腑に落ちる。それは一種の、願望である。世の中に、不条理なことがまかり通るのは怖いという感情による錯覚だ。現に、加害者には弟妹がいたりするが、彼らは別の生き方を選んで事件を起こしたりはしていない。

 また他にも、それぞれの事件で共通するのは、加害者たちは決して社会から孤立していたわけではない点だ。良好とは言いがたかったかもしれないが弟妹や親戚との交流はあり、当時はまだ児童相談所の権限が強くなかったとはいえ、確かに何度か接触が図られていた。ときには加害者と喧嘩した近所の人が腹いせに、児童相談所に虐待の疑いがあると密告したことさえあったという。善意の通報でなくても、子供が助かる機会となりえたわけだ。

 本書を通読して、事件を防げなかった原因を私は「貧困」にあるように思った。加害者たちの仕事が長続きしなかったり、散財して借金を重ねたりしていたという金銭的な貧困ではなく、想像力の貧困さである。何をしたらどうなるか、何をしないとどうなってしまうのかといった自分の行動を、加害者たちは驚くほど狭い視野で選択しているのが読み取れる。

 しかし、それが自分の生きてきた経験しかモノサシが無いからだとすれば、報道のみで事件に接し、本書を読んでいる私たちもまた同じかもしれない。私自身の生育歴の中で父親の記憶を辿ると、遊んでもらった楽しい思い出と同時に、酒に酔って些細なことで激昂すると包丁を持ち出して、追い回されたのが一度や二度ではない記憶も甦る。それが世間一般で普通にあることなのか、私の貧困な想像力では分からない。ただ本書を読んで、自分はまだ事件を起こしていないことに安堵するばかりである。

文=清水銀嶺