いつから日本人は「布団」で寝ているの? 超マニアックな世界――「寝所」と「寝具」の日本史!
公開日:2016/10/20
大昔より、「寝るという行為」自体は何一つ変わっていない。だが、「寝る場所」と「寝る道具」は大きく変遷を遂げてきた。狩りをして原始的な生活を行っていた未開の時代はもちろん、上古、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸、明治と、寝具の歴史は少しずつ、しかし確実に、その時代に合わせた「変化」を遂げながら現在に至っている。
この超マニアックな世界の研究成果をまとめた一冊が『寝所と寝具』(小川光暘/雄山閣)。本書は上古・上代といった、まだ竪穴式住居で寝ていた時代の寝具、筵(むしろ)や薦(こも)から昭和前後に誕生した「洋掛け布団」まで、日本史における寝所と寝具の通史を紹介している。絵巻物の図や、古典史料からの引用も豊富なため、読み応えも抜群だ。正直、こんなマニアックな書籍を誰が読むのだろうと思ったが、寝所という超プライベートな空間を盗み見しているような気分になれて、予想外に面白かった。
縄文時代前期以前、竪穴式住居は「寝るための場所」と考えられており、大半は屋外で過ごした。しかし、「炉」(火元)が屋内に誕生したことにより、単なる「ねぐら」(巣)だった場所が、「家」に進化し、弥生時代には住居の中に「寝床」と「土間」ができたそうだ。
これが寝所の始まり。
それでは、寝具についてはどうだろうか。寝具は大きく二つに分けられる。「敷き布団」と「掛け布団」だ。
上古・上代の敷き布団には、「タタミ」というものがあった。筵や薦を用いた、現在のゴザに近い形状のものと想定される。一枚だけでは薄いので、貴人は何枚も重ねて使用したようだ。
掛け布団は「フスマ」と呼ばれた。漢字にすると「衾、被、裯」で、現在の建具である「襖」とは全く違ったもの。語源は臥す(寝る)+裳(腰から下を覆う衣装)=「ふすも」が「フスマ」になったとか。つまり「フスマ」という掛け布団の形状は「袖と襟が付いた着物型」だった。
平安時代になっても、フスマはそれほど変化を見せない。だが、こちらを使用していたのは一部の上流階級や「病気の時」「特に寒い時」だけで、普段は昼間身に着けていた衣服を一枚脱ぎ(ご存じのとおり、当時の人は超ド級の重ね着をしていたので、その中の一枚だけということ。全裸になっていたわけではない)、それを掛け布団として使用し、寝ていた場合も多かった。
さらに室町時代。敷き布団にあたるのは「上畳」と「表筵」というもので、平安時代とそれほど変わらない。先の時代と変化があるのは掛け布団の方で、「小御衣(こおぞ)」というものが出現した。これは「フスマ」に近いものだが、「小袖」の形で「ゆき」「丈」を長くしたものだそう。
また、室町時代における変化は、裕福な人間に限り、「板敷に畳を敷く」家が現れたこと(寝る場所にだけ畳を敷いていたようだ)。さらに時代が下ると、上級社会では現在の和室に近い総畳となっていく。
お次は安土・桃山時代。新たな寝具として掛け布団の「夜着(やぎ)」が現れた。こちらは襟袖の付いた着物型の掛け布団……つまり、先ほどから紹介している「フスマ」とそれほど大きな変化はないもの。
これ以前は、建具の襖のことも「フスマ障子」という名称だったが、こちらを単なる「フスマ」と称するようになったのと並行し、掛け布団の「フスマ」が夜着という名称に変化していったと推測されている。その他、素材の違いなどによる名称の変化も考えられるそうだ。
江戸時代になり、遂に我々の想像に近い「布団」(敷き布団)が登場する。
存在自体は桃山時代からその名を史料に見ることができるのだが、江戸時代の16世紀後半から、庶民へ、そして全国へ、長四方の「敷き布団」が広がりを見せた。つまり江戸時代は、着物型の夜着(掛け布団)×布団(敷き布団)のセットで寝ていたということ。
しかし、元禄時代頃から京都、大阪では「長四方の掛け布団」も現れ、遂に現在の我々の寝ている寝具に近いものが登場する。とはいえ、庶民にとって綿を使用した布団は高価なものだったため、実際はワラを敷き・掛け布団にしたり、紙の寝具で寝ていたりする者もいたそうだ。
まだまだ語り尽くせぬマニアックな世界。本書の内容はもっと肉厚で意外な発見もたくさんなので、詳しく知りたい方はぜひ本書をご覧になってみてほしい。
文=雨野裾