南京のマッサージ店で働く盲目のマッサージ師たち―。奮闘と挫折、人間模様を繊細に描いた傑作小説『ブラインド・マッサージ』
更新日:2017/11/13
長編小説にとって最高の栄誉である茅盾文学賞受賞作品であり、既に中国ではテレビドラマや舞台、映画にもなっているベストセラー小説(特に、映画は名匠、ロウ・イエ監督が手がけ、第64回ベルリン映画祭で銀熊賞を、台湾金馬奨で最優秀作品賞を獲得するなど、大絶賛を受けている)、その日本翻訳版が遂に発売された。
『ブラインド・マッサージ』(畢飛宇:著、飯塚 容:翻訳/白水社 原題『推掌』)は南京のマッサージ店で働く盲人たちの人間模様を繊細に描いた傑作である。ユーモアと切なさが織りなった物語は読者の胸を深く打つだろう。そして、盲人たちの特殊な世界を覗いているつもりが、いつの間にか読者自身の人生に重ね合わせずにはいられなくなる、強烈な感覚が押し寄せるはずだ。
群像劇である本作には、さまざまなタイプの人物が登場する。健康を犠牲にして働き続け、共同店長にまで成り上がった沙復明。彼は元ピアニストでマッサージ師の都紅に思いを寄せている。沙復明の同級生でもある王先生は、同じく盲人の恋人、小孔とともに沙復明の店で働いている。王先生は身勝手な弟に、小孔は盲人との結婚に反対している両親に悩まされている。そんな小孔に横恋慕するのは若くて内気な小馬。彼は小孔に思いを告げられず、悶々とした日々を送る。対照的に、積極的な求愛で恋人を得たのは金嫣。悲劇的な失恋で失意の日々を送る泰来に運命を感じ、出会ったその日に愛を告白したのだ。
ここまでの人物設定を読んでもらえれば分かるように、本作は盲人の世界を扱った小説でありながら、その人間関係は目が見える人間たちの世界とほとんど変わらない。そして、多くのフィクションのように盲人たちを同情的に扱おうともしない。むしろ、「盲人の資格」という台詞に象徴されるように、盲人たちの社会や秩序を誇張せずリアルに伝えることにこそ注力している。一方で、寄り添いあう恋人たち、片思いの苦しみ、成功の喜び、そして挫折の敗北感など、描かれる感情の数々は全ての人間に共通する喜怒哀楽の形だといえるだろう。では、『ブラインド・マッサージ』の何が特別なのかというと、登場人物の心理描写を通して、我々が普通に「理解している=見える」と思い込んでいる概念について、問い直すきっかけを与えている点である。
有名な映画監督が店を訪れたとき、彼は都紅の容姿を絶賛する。芸術の世界の成功者から与えられた称賛に、戸惑ったのは都紅本人よりもむしろ、店長の沙復明だった。当然、全盲である沙復明には都紅の容姿を確かめることができない。しかし、都紅が美しいという監督の言葉によって、沙復明は都紅を意識するようになってしまう。教養として大量の美しい詩句を暗記していた沙復明だが、本物の「美」とは何かを理解できていなかったのではないかと思い悩むのだ。
「美」は災難である。それは軽やかにゆっくりと降臨する。
そして、「美」を求めて沙復明は都紅を愛し始める。しかし、都紅は決して求愛に応じてはくれない。手に入らないものほど強く望んでしまうという、悲しいほどの人間の業が二人の関係には表れている。それは目の見える、見えないにかかわらず、どんな人にも当てはまることではないだろうか。
本作の文章では、盲人同士の会話の中でもお互いを「見る」、「にらむ」と表現される。相手を強く思いやり、強く憎むとき、そこには「まなざし」が生まれているのだ。強い感情が登場人物の闇を貫く瞬間に、読者もまた心を揺さぶられずにはいられない。そして、これほどの感情を自分は抱いたことがあるだろうか、本当に身近な人々を「見る」ことができているだろうか、と自問自答するはずだ。そう、『ブラインド・マッサージ』が世界中で受け入れられた理由は、知られざる世界を描いた小説でありながら、登場人物たちの言動があまりにも人間の本質を体現していたからに違いない。
文=石塚就一