「人気がないから話題にもならん」 人生は紙一重!? 野村元監督が名捕手から名監督になるまで

スポーツ

更新日:2020/3/10

 プロ野球の人気は低下の一途をたどっているという。東京オリンピックでは3大会ぶりに競技復活をとげたにもかかわらずだ。そんな時節に、その知性とユーモアあふれる「ボヤキ節」がいつもニュースになる野村克也氏が『野村の遺言』(小学館)を出版。連日、メディアが列をつくって取材に訪れた野村氏に、インタビューをさせてもらった。

キャッチャーは脚本家。アクターの選手をどう動かすかを決める

 同書ではじめに、野村氏は憂える。

プロ野球のレベルは低下しているのではないか――。
近ごろ、私はそう思えてならない。

大きな原因は、名捕手と呼ばれるキャッチャーが少なくなったこと。野球は、「監督の分身」であるキャッチャーがサインを出し、それに従って他の選手が動いてはじまる。だから、「キャッチャーは脚本家」と同氏は説く。選手たちはいわば“アクター”。

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 映画に例えて続ける。

いい脚本からダメな映画が生まれることはあっても、
ダメな脚本からいい映画が生まれることは絶対にない。

 つまり、優れた捕手がいて残念な野球になることはあっても、捕手が拙ければレベルの高い野球になるはずがないということ。二刀流の活躍をみせる大谷翔平、トリプルスリー(打率3割以上・本塁打30本以上・盗塁30個以上)を達成した山田哲人や柳田悠岐といった才能あふれる“アクター”は、今のほうが増えたかもしれない。だが、それを生かす「脚本家」たるキャッチャーがいなければ、野球は面白くなるはずがないと憂慮し、同書を書くに至ったという。

「人気がない」ため、スルーされてきた新手法や裏話

野村氏「いろいろやっても、おれは人気がないから話題にもならん」

 取材のなかでも野球ファンを超えて愛されるボヤキ節が炸裂した。何せ、これまで野村氏が先駆けて描いた“脚本”は数えきれない。データを駆使した戦術の「ID野球」や現役時代に打者を動揺させようと声を掛けた「ささやき戦術」は知る人も多いだろう。

 今では投手の必要技術となっている「クイックモーション」も、選手時代に野村氏が考案した。現役当時の野村氏が、盗塁王だった福本豊に走られないようにするため、投手に「ちっちゃいモーションで投げろ」と命じたのがはじまりという。当初、投手たちは「勢いがなくなる」「バランスが崩れる」と反対したが説得した。

 変形の守備シフトを敷いたことでも有名だ。例えば、打球を鋭角にぐいと引っ張って飛ばす強打者をプルヒッターというが、そうした打者には逆方向に流し打ちしない(できない)選手もいる。そこで、ボールが飛んでいかない可能性の高いエリアに野手を配置するのをやめた。

野村氏「“王シフト(※1)”なんてのも、言い出したのはおれが先なんだよ。人気がないってのは話題にもならん」

 今では当たり前となっている、投手の分業制(先発・中継ぎ・抑え)も、いち早く野村氏は実践で取り入れてきた。例外的に大きな話題を呼んだのは、1976年に大エースだった江夏豊をリリーフに転向させたこと。

野村氏「江夏をリリーフに転向させるのに、1カ月かかった。会うたびに『リリーフやれ』って言ってたけど、逃げられまくってね。それである時、ふっと口をついて出たんだよ」

「『これからは先発・中継ぎ・抑えって分業制になる。だからお前な、リリーフの分野で革命を起こしてみろ』って。そしたら胸打たれたのか、『革命かあ…』って唸って。『わかった、やる』って納得したんだよ」

 スター江夏の注目度は絶大で、メディアは大々的に「初のストッパー」と捉えて報じた。

 ところが、この“革命”には先人がいた。70年にドラフト1位で南海ホークスに入団した佐藤道郎だ。だが先発でうまく行かず、人気も出ない。先発完投を思い描きながら奮闘する若手投手に、当時監督だった野村氏は「(先発完投なんて)無理だからリリーフエースになれ」と説得。すると佐藤は適性を伸ばし、74年には13セーブを挙げ、パ・リーグの初代セーブ王に輝く。江夏より前に、佐藤を転向させ起用していたのだ。

野村氏「佐藤ミチ(道郎)に怒られたよ。『江夏がストッパー初みたいになってるけど、僕が最初じゃないですか!マスコミに言ってくださいよ』って」

「佐藤をなだめたよ。『まあ人気がないからよお。人気のあるもんには勝てないんだよ。しゃあない我慢せい』ってね」

 「処世術がゼロ」と自虐する野村氏は、最も実績が軽視されたレジェンドかもしれない。現役時代の最大のライバルは、あの長嶋茂雄と王貞治。彼ら2大スターを太陽の下で堂々と咲き誇る「ヒマワリ」に、自らを人目につかずひっそりと咲く「月見草」に例えた話はよく知られる。

野村氏「でもね、一生懸命に仕事をしていれば、必ず見てくれる人がいる。その信念でやってきたから」

※1 王シフト…プルヒッターの王貞治氏の打率を下げるため、考案された変則の守備シフト。王の打球はほぼ右翼側へ飛ぶため、野手の多くが左翼側をがら空きにして右翼側に寄って守った守備シフトのこと。

「映画界の大損失」!? 名捕手でなく名優になっていた可能性も

 言わずと知れた名捕手で名監督。野村氏は現役時代、戦後初の三冠王に輝き、8年連続でリーグ本塁打王に輝いて、歴代2位の通算657本塁打をマーク。数々の日本記録を打ち立て、45歳で引退するまで27年に渡り、球界を代表する捕手として活躍した。

 監督業は、35歳の現役時代にも南海ホークスでプレイング・マネージャーとして兼任。引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスで指揮した。ヤクルトの黄金時代を牽引しただけでなく、他球団で結果を出せないような選手を次々と活躍の舞台にあげ、その手腕から「野村再生工場」と呼ばれた。出場試合数は、選手として3017試合、監督として通算3204試合を戦い抜いた。

 球界の至宝である。本人も「野村−野球=ゼロ」と語るほど野球一筋だが、それまでに何度となく壮絶な人生の分岐点を乗り越えていたと明かす。

野村氏「わが家はハンパじゃない貧困家庭だった。2歳の時、父親は日中戦争で死んじゃって、小学校2年、3年生の時は、母親が子宮癌と直腸癌になって。もう助からないって言われたけど、母親は意思の強さというか死ぬわけにいかないって退院してきた」

 病と闘い、苦労し続けた母のためにも「絶対に金持ちになる」と決意した野村少年は、中学生になり、まず歌手になろうとしたという。美空ひばりが衝撃デビューを飾った時代だった。

野村氏「よし、おれも歌手になろうって音楽部に入ったけど、高い声が出ないんだ。そしたら同級生が声を1回つぶすといいって。それで学校帰り、毎日海に向かって『ワーッ!』って叫んだ。声つぶすって大変だよ。でも、(声をつぶして高い声が出るという話は)ウソだった」

 それで野球に勤しんだかと思いきや、今度は俳優業を志そうとしたという。

野村氏「佐田啓二さん(※2)に憧れて、映画俳優になろうって思ったの。映画を見に行っては演技と台詞を覚えて、鏡の前で真似しては演技した。でも、はたと気がついたんだよ。この顔じゃあ無理だってね…」

 野球界の大損失になるところでしたと返すと、野村氏は思い出したように語った。

野村氏「いや、この話を仲代達矢さんと対談した時に話したら、あの仲代さんがこんなこと言ってくれたんだよ。『ああ、残念だ! 映画界の大損失だ! 野球界で一流だった人は映画界に行っても一流になってたはずです!』って。本当に真剣に話してくれて。嬉しかったなあ」

 仲代氏は、野村氏が俳優になっていたら志村喬(※3)のような渋い俳優になっていたに違いないと太鼓判を押したという。

※2 佐田啓二…中井貴一の父で絶大な人気を博した二枚目俳優。1953年に公開された映画『君の名は』でトップスターの地位を築くも、37歳の若さで事故で他界。
※3 志村喬…日本映画界を代表する名優。生涯443本の映画に出演し、巨匠・黒澤明の傑作「七人の侍」「生きる」など、同監督の全30作品のうち21本に出演した。

「人生は紙一重」野球の道も半ばになっていた可能性

 歌手と俳優の道を諦めた野村少年は、中学3年生でようやくプロ野球選手になることを決意。高校時代は野球に励んだ。

野村氏「あと野球しか残ってなかったから。でもスカウトがいっぱい来る全国高校野球京都府予選でホームランを打っても、どこからも声が掛からなかった。諦めかけた時だよ。新聞配達してたんだけど、新聞に『南海ホークス新人募集』って広告が出ていてね。それで京都から大阪まで入団テストを受けに行った」

 テストは最も苦手な遠投からだった。「肩が吹っ飛んでもいい」と思いっきり投げたが、最低ラインの80メートルを超えない。すると、2投目の前にスタートラインで手伝いをしていた2軍の選手が野村氏に「前へ行け、前へ」と助言。戸惑いながらも、ラインから5メートルほど前に出て投げ、80メートルを何とかクリアしたのだという。

 最大の難関を突破し、テストに合格。晴れてプロ野球選手になった。だが、出場機会に恵まれない。2年目はブルペンで球を受ける日々だった。そのうちに契約更改の時が訪れ、一番に呼ばれるとクビを宣告された。

 野村氏「新人が15人も入ってきたから、テスト生は一番の(クビ切り)候補なんだよって言われて…。納得できません、1試合でも使ってみてください、お願いします、それでダメだって思ったらその場で帰りますからって頼んでもダメ。とにかく頭下げて、じゃあこれで失業したら生きていく自信がないから電車に飛び込むしかないですねって言ったんだよ。そしたら、『お前、冗談でもそんなこと言うな』って上にかけあってくれて、もう1年残してくれた」

「あの頃は紙一重だよね。あそこでクビ宣告されて、はい、お世話になりましたって帰ってたら、現在の自分はないんだもん。人生は紙一重」

 それから猛練習と猛勉強に励み、野村氏は歴史に名を残すオールスター選手に上り詰めた。その創造性にあふれた捕手論は、紆余曲折の末、「誰にも負けない」と自負する努力で積み重ねてきた。

 同書には、野村氏の英知と創造性が凝縮されている。野球関係者や野球を好きな人はもちろん、なんとなく興味のあるという人にもオススメだ。というのも、正岡子規が捕手だったことなど野球の歴史をはじめ、実際の試合での駆け引き、織りなす“ドラマ”のさまざまな要素までがわかるようになるから。

 ダイヤモンドの中で1球1球、間を置く野球というスポーツは、複雑な「伏線」がどこかしこにある。凝った映画が繰り返し見るほどに新しい発見があって面白いように、野球も細かな「物語」や「仕掛け」がわかるほどに面白くなる。そして野村氏の言うように、より良い「脚本」が描かれるほど多くの「名作」が生まれ、レベルも人気も高まっていくはずなのだ。

取材・文=松山ようこ 撮影=ダ・ヴィンチニュース編集部