『サラバ!』を経て、見えてきた新たな世界――。又吉直樹 ×西 加奈子『i(アイ)』刊行記念対談【前編】

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/13

 直木賞受賞作『サラバ!』から2年。問い続けた末に生まれてきた新作『i(アイ)』は、“今”という時代に生きる意味を突きつけてくる一冊だ。それは小説家・西加奈子の切実な叫びでもある。かつて又吉から贈られた言葉は、この作品の執筆に大きな力を与えてくれたという。そんな二人が『i』について語り合う。さまざまなテーマが内包されている本書からあなたは何を受け取るだろうか?

「絶対、世界にアイはある」と、この小説で叫びたい。(西)

自分の痛みを痛がったらいかんねんって思う人たちを包む西さんの小説。それも愛やなと。(又吉)

advertisement

又吉 “i”って、物語のなかの自分のことなのかなって、タイトルだけ見たら思うんですけど、ページを開くと1行目に「この世界にアイは存在しません」という言葉があって、読み進めていくうちに、“i”はいろんな“アイ”に結びついていく。もちろん自分のことでもあるし、数式のことでもあったり。

西 これ、高1のとき、数学の授業でほんまに先生が言ったんです。「この世界にアイは存在しません。」って。主人公のアイちゃんと一緒で、それに私もドキッとして。

又吉 へぇ。

西 (アイ=愛)だと思ったから、先生、何言うてんのやろって。そしたら、これは虚数の“i”のことで。その驚きが強く残っていたのかな。この物語では、いずれ主人公が数学を学ぶことになったので、大学院で数学を学んだ方たちに取材させてもらったんです。具体的にどういう勉強するのか、とか。お話、すごく面白くて。ほかの学問、たとえば物理学などは宇宙の謎を解明するなどの目的があるんやけど、数学は数式を解くという目的しかないんですって。それってすごく純粋で美しいなと思って。

又吉 ほんまにそうですね。

西 数学に魅せられた人が数学を解くためだけにいて。だからすごく孤独なんですって。周囲にわかってもらえないから。それがアイちゃんという子に自然につながっていきました。孤高であるということとか、自分にしかわからない世界があることとか。あと“i”をイマジナリーナンバー=想像上の数と呼ぶということも、後に知ったんですけど、なかったとされていたものを存在させるというのも、美しいなって。

又吉 それは、この小説で西さんが描かれた(アイ=愛)とも似ている。目には見えないけど、存在させる、という。

西 又吉さんともよくお話しさせていただくけど、ヘイトスピーチとか、ネットに悪口を書きこむ子とか、今、圧倒的に愛が足りないと思っていて。自分発信の愛も、人からもらう愛も。でも、愛がないって、少なくとも表現する側が言ったらいけないのじゃないかと思って。正直、日々のニュースを観ていても、世界から愛はなくなりかけているのかもしれないと感じてたんやけど。そのとき「この世界にアイは存在しません」という言葉がそれと結びついたんです。先生が言った“アイ”が、LOVEのことやったら、絶望やなって。

又吉 そうですね。

西 又吉さんが『サラバ!』を読んでくださったとき、「これからも書き続けていくという西さんの宣言やと思った」。そう言ってくださったでしょう。

又吉 はい。

西 「叫び続けてください」と背中を押された気がした。だから、ちょっと疑ってはいても「絶対、世界に愛はある」ということを、この小説で叫びたいと思ったんです。

又吉 むちゃくちゃ愛あるやんという場面もいっぱいあるけど、状況や環境が違うものになってしまった瞬間、離れてしまうことってありますよね。そこを結びつける想像力みたいなものが薄まっていったんやろなって。「愛がある」と思うためには、やっぱり想像力が必要で、『i』を読んでいて、それをすごく感じました。この世界にあるのは、言葉で説明できるものだけじゃないというのは当たり前のことだけど、今、当たり前じゃなくなってきてますよね。見えるものとか、数字とか、カテゴリーとか、そういうものは重要視されるけど、それ以外のことに対してみんな疑っている。そういうのをぶっ壊す感覚みたいなのが、小説や音楽、笑いにも必要やなと。

西 あまりにも今、世界は過酷ですよね。The Black Eyed Peas という、大好きなイギリスのヒップホップグループがいるんだけど、2003年に『Where is Love?』という曲を出したんです。それは01年の9.11同時多発テロを受け、愛はどこへ行ったんだと謳った歌なんやけど、それを今年もまたリリースしたんです、バージョン変えて。ずっと「Where is Love?」と言い続けなあかん状況に今の世界はある。そうやんなって思って。それがすっごく力になったんです。やっぱり何度でも言わなきゃって。

人それぞれの痛みはけっして比べられない

――主人公のアイは、1988年にシリアで生まれた。そして、アメリカ人の父、日本人の母のもとへ「養子」としてやってきた。裕福で、アイの想いをいつも満たしてくれる両親――けれど、アイは物心ついたときからずっと苦しんでいる。

西 私自身は親の愛を疑わなかった、小さい頃から。でも、あるとき友達と話をしてたら、その子、すごくデリケートで、この人たち、なんでこんな私によくしてくれるのかなって思っていたんですって。実の親なんですよ。

又吉 へぇ。

西 その子は、そういうシステムだと思っていたんやって。そんな考えもあるんやと驚いたと同時に、親の愛を疑うことって、自分のアイデンティティも疑うだろうなって。私も揺らぎがちやけど、親に愛されてへんかもって思ったら……。

又吉 そうですね。

西 主人公はひとりで立ってる子を書きたかったんです。誰にももたれかかれないと思っている子を。そんな子を通して、アイデンティティとは何かを書きたい。あと、エジプトで暮らしていた小さい頃、自分の手柄でもなんでもないのに、いい家に住んでいることがすごく恥ずかしかった。『サラバ!』にも書いた、その気持ちのことも。例えば貧困と病気が蔓延しているような国からいわゆるセレブの元にやってきた養子のことにも思いが巡りました。十代でセクシャルキャンプみたいなところに行かされて、セックスを教えられるというようなエリアもある。そんな環境から、セレブといわれれる人たちの養子になって、いつか母国のことを知ったらどんな思いがするだろうと。落差がすごすぎますよね。

又吉 すごいですよね。『i』にはアイちゃんを通して、誰かと比較するつらさも描かれている。アイちゃんはたしかに恵まれている。でもそういう人を守ってくれる表現って意外と少なくないですか? 虐げられている人は、もちろんしんどいけど、恵まれている人は悩んだらあかんような風潮もあるじゃないですか。「おまえぐらいで文句を言うなよ」って永遠に言い続けられる、みたいな。人それぞれの痛みや苦しみって、数値化して比べられない。だから自分の痛みはきちんと痛みたいながりとして受け止めながら周りの人の気持ちも理解できるようになればいいんだけど、今、逆に行ってるじゃないですか。「もっとたいへんな人、おんねんぞ」って。苦しむことすらできない人がつくられてる。いや、血ぃ出てるよ? なんで痛がったらいかんねんって思う。西さんの小説には、今回もそういう人たちを包む言葉が出てくる。それも愛やなと思いました。

自分の幸せを願う気持ちとこの世界の誰かを思いやる気持ちは矛盾しない

西 又吉さん、シリアのニュースとか、観られますか?

又吉 観るの、つらいですよね。僕らの置かれている状況とは全然違うじゃないですか。そこがなんか……だからといって別の世界のことだと思うのは嫌やし。ちゃんと観て、もうちょっと考えなければと思いますね。けれど、そのこと考えすぎて、自分の周りのやつの小さな痛みを感じることがおろそかになるのも嫌なんです。だから簡単じゃない。状況も痛みもそれぞれ違うから。

西 以前、ある国へ行ったとき、貧困という環境のなかで靴を履いていない子、痩せている子たちを見て、胸が痛くなったんです。なのに、帰りのトランジットの免税店で、「わー、安なってる!」って、品物を見ていて。そのとき、吐きそうになったんです。なんやねん、私って。だからって、その国で持った感覚をそのまま日本に持ち込んで生きていくというのも嘘な気もして。今の自分の幸せを願う気持ちと、この世界の誰かを思いやる気持ちは矛盾しない。そこを書きたいというか。日本に暮らしていて思うのは、こういう話がもうちょっと日常に入ってきてもいいんじゃないかなって。たとえば、シリアで、今こういうことが起こってるとかいう話は、会話になかなかあがらないでしょう。もうちょっとそこの線をなくしていいんじゃないか。今日は辛い、今日はやめて、という場合もあるやろうけれど、それを話題に持ち込むことで、めんどくさい人みたいになったり、偽善者っぽくなったりするのがちょっと苦しいかなって。

又吉 生活を脅かすものを排除したいというのは、みんなどっかである。でも、この世界の誰かに対する想像力、何かから喚起されるものがあれば、変わりそうですよね。

西 そうですね。変えたいっていうと、おこがましいように感じるし、観たら、自分が壊れちゃいそうな悲惨なニュースもあるけれど、私は作家だし、そのしんどさも込みで知らなければと思っている。その強さを自分にくれるのが、小説を書くという行為なのかなと思います。

知らないといけないことはある。すごくしんどいけど。

――アイは、戦争や災害などで多くの人々の命が失われることに心をいためていた。そして、まったくの部外者なのにいつまでもその悲しみにとらわれていることを恥じてもいた。そうした葛藤のなか、2005年のスマトラ島沖地震の頃から、アイは「大きなニュース」の死者の数を、ひそかにノートに書き込むようになった。

西 アイちゃんは書きとめることで、私は知ってますよ、無視してないです、という安心感を得たかったと思うんですね。その気持ち、私自身もすごくわかる。少なくとも私は知っているのだと。10~20代の頃はとてもじゃないけど見られなかったことが、年を重ねた今なら見られるようになったし、冷静に対峙できるようにもなった。どこか麻痺していってる分、私は小説でそこを引き受けて書きますっていうようなところもある。

又吉 麻痺というより覚悟みたいな感じなんでしょうね。

西 そうですね。

又吉 今、引っ越しの準備をしているんですが、昔、書いていた自分の日記みたいなものが出てきたんです。読んだら、成人式のときのことが書いてあって。僕はスーツを着て、式に出席したんですが、ふとニュースを見たら、その日、同じ歳の人が事件で亡くなっていた。それで僕はすごく恥ずかしく感じたんです。そういう人がおるのに、自分、何浮かれてんの?って。その気持ちをずっと原稿用紙に書いていたんです。アイちゃんも、そういうものをダイレクトに感じてしまうでしょう。それはほんまにつらい。でも、人は人、これは遠いところの話やから、という折り合いの付け方って、やっぱりちょっと間違っていると思うんですよね。

西 違うと思います。

又吉 どうしていくかというのは、各々が考えなきゃあかん問題やと思うんですけど。その原稿用紙には、その人を追い込んでいった人に対する憎しみが暴力的な言葉で綴られていて。今の僕の考えとはちょっと違うけど。じゃあ、そうやってずっと生きていけるかというと、いけないんですよね。

西 うん。

又吉 しんどいから。

西 そうですね。身近な人も傷つけるから。ずっと心ここにあらずで、世界のこと考えて。そして殺した人の気持ちも考えちゃうんでしょう?

又吉 そうですね。もちろんそれを肯定するんじゃなく、なんでそういう行動をとるようになったのかという、その背景みたいなものですね。僕らができることって、殺したやつに直接罰を与えること以上に、そういう環境をどうやって変えていけるかということですよね。それは作家とか芸人とかではなく、ひとりの人間としてというレベルの話ですけど。

西 私は20歳のときは大学にいて、法学部やったから、死刑に賛成か反対か、ディベートみたいなのさせられて。恐ろしいんですけど、私、賛成だったの。自分の親とか友達を殺されても反対って言える?って。そのとき、私はすごく弱くて、一元的な考え方しか出来なくて、加害者の気持ちを考えることが怖かったんやと思うんです。小さい頃、野生動物のドキュメンタリーを観ていて、ずっとガゼル側を応援していた。ガゼルがライオンに狩られ、子どもが喰われたら、「ライオンが悪!」とか思ってたけど、別のところでライオン側のドキュメンタリーをやってて。4日間狩りができず、子どもが餓えて……と。そのとき、もう見せてくれるな、と思ったの。知らんかったほうがラクやったって。でも、知らないといけないことはあるなって。すごくしんどいけど。

又吉 そうですね。

西 又吉さんはきっと小さい頃からライオン側にも立てた人なんやと思います。想像力があるから。私はそこに行ったら壊れるという生存本能で、シャットアウトしていたところがあって。でも世界ってそうじゃないから。これからどんどん開いていきたい。まだ恐る恐るですけど。

取材・文=河村道子 写真=江森康之
ヘアメイク(又吉直樹)=赤松絵利(esper.)