手塚治虫先生と直に接した漫画家たちが描く、漫画の神様の素顔とは?
公開日:2016/12/20
1946年に『マアチャンの日記帳』で漫画家デビューした、漫画の神様・手塚治虫先生。今年でデビュー70周年ということになるが、ご存じの通り1989年2月9日に惜しくも他界されている。それでも先生の功績は色あせることなく、メモリアルイヤーを記念してさまざまな出版社が関連本を発行。中でも取り上げておきたいのが『漫画家が見た手塚治虫~マンガに描かれた漫画の神様~』(手塚治虫、藤子不二雄A、石ノ森章太郎ほか/秋田書店)である。
ひとくちに「漫画の神様」というが、そのゆえんはどこにあるのか。本書冒頭に登場する藤子不二雄A氏の「巻頭の言」には、それが端的に理解できる部分がある。「手塚先生の描かれた作品数はザッと700タイトル、総ページ数は約15万枚といわれる」という記述だ。単純に1冊のコミックを180ページとして計算すると、830冊以上になる。先日、惜しまれつつ完結した『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の作者・秋本治氏が1976年から2016年の40年間、一度も休まず連載を続けて200冊。これも十分に驚異的なのだが、概算とはいえ手塚先生はその4倍もの仕事量をこなしている。ハッキリいって人間業ではない。人間でなければ「神」以外にありえないだろう。
無論、その仕事ぶりだけで「神」と称揚されるほど、人間は単純ではない。『漫画家残酷物語』などで知られる故・永島慎二氏は、かつて手塚先生に7万円ほど借金をしたエピソードを描いた。1957年の7万円は、その頃のサラリーマンの月給が3万円というから決して少ない額ではない。永島氏も借りた後、なかなか返すことができなかった。そして数年の時が経ち、ようやく借金を返済しようとした永島氏に対し手塚先生は「ダンサン(永島氏)やほかの人もがんばっていることで、ぼくはもう返してもらっているのです」と語り、受け取ろうとしなかったという。永島氏はムリヤリお金を置いて逃げるように帰ったのだが、おそらくその時の先生に「神」を見たはずだ。
このように「漫画の神様」と称されていても人間なのだから、人間らしい部分も当然ある。故・石ノ森章太郎氏の描く『風のように…』という作品は、手塚先生の人間的な部分を感じられる。それはかつて石ノ森氏が、手塚先生の創刊した『COM』という雑誌に『ジュン』という作品を掲載したときのこと。実験的な手法で描かれた『ジュン』だったが、氏はある読者のファンレターから、この作品を手塚先生が酷評していたと知る。ショックを受け、連載をやめると伝えた石ノ森氏の下へ、手塚先生自らが訪問。「申し訳ないことをした」「自分でもイヤになる」と謝罪したという。若い才能に対するライバル心や嫉妬心に胸を焦がす先生の一面を描いた、貴重なエピソードだ。
また『風のように…』には、もうひとつ印象的な部分がある。それは手塚先生と石ノ森氏の対談でのこと。「マンガは残りませんよ」という手塚先生に対し「……そうかなあ……そうでしょうか」と石ノ森氏は不承の様子。先生は「作者と一緒に時代と共に、風のように吹き過ぎていくんです。──それでいいんです」と語る姿が描かれる。
石ノ森氏は「マンガは“萬画”だ」という“M・A”宣言を提唱したり、東京国立近代美術館で「手塚治虫展」を企画したりするなど、漫画を文化や芸術に昇華しようと奮闘していた。それは幼き日に読んだ手塚作品が、映画や音楽に匹敵する芸術だと感じたからに他ならない。しかし当の手塚先生は、漫画を「残らないもの」と捉えていた。考えてみれば、偉大な芸術家が生前、名を残そうと頑張っていたかといえば、必ずしもそうではない。評価をするのは後世の人間であり、創造する立場の人間は、ただ作り続けるだけ、ということなのだろう。創造者とその後継者の思考が交錯する、非常に興味深いエピソードではないか。
返すがえすも、60歳という早さで亡くなられたことが惜しまれる。欲をいえば、直にお会いしたかった。しかし我々には先生の残した作品がある。本書で永島慎二氏がいうように、先生を知るにはできるだけ多くの手塚作品を読むしかない。「それはきっと、あなたにとって楽しい時間となるはずだ」という言葉も、全面的に肯定するのである。
文=木谷誠