江戸の町にはブラック企業しかなかった!? 人情社会とはほど遠い江戸の人間関係…『本当はブラックな江戸時代』

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更新日:2017/1/5

『本当はブラックな江戸時代』(永井義男/辰巳出版)

 現代に暮らす私たちが思い描く江戸庶民の暮らしは、ドラマや小説に描かれているものが基準になっている。そのため、江戸の町は、リサイクルが進みゴミが少ない清潔な町だったという話を耳にしたことがある人も少なくないだろう。更に、そこに暮らす人々は人情に厚く、治安もよかったという話もよく聞く。しかし、実際の文献や資料を調べてみるとそうではない部分が浮かび上がってくるようだ。そこで、江戸時代の江戸の町の真実に迫る本『本当はブラックな江戸時代』(永井義男/辰巳出版)を紹介する。

江戸の町にはブラック企業しかなかった

 江戸の町で暮らす人は、きちんと定職についている人が多かった。とは言っても自分の意思で決めた仕事に就いていたわけではない。庶民は12歳くらいになると、奉公に出されるのだ。住み込みだから、仕事時間が終わっても家に帰れるわけではなく、24時間体制で働くのと同じ状態になる。雑魚寝でも寝場所が与えられ、食事と着物も与えられるのだから幸せだろうなどと思ったら大間違いだ。10年間の年季奉公を経てようやく一人前になるという考え方が一般的だったため、それまでは働いてもまともな給料が出るわけではなく、小遣いが与えられる程度。食事も粗末なものだった。これだけでも児童労働であることを考えたらブラックなのに、休みは年に2日だけ。1月中旬に1日と7月中旬に1日だけだった。故郷に帰るためのまとまった休みがもらえるのは9年目というのだから、現代の感覚ではもはや理解しがたいブラックぶりだ。これが江戸の町ではどこでも当たり前のように行われていたのだから、江戸にはブラックでない働き場などなかったことになる。

危険な仕事は庶民の役目

 江戸の町には治安を守る組織として北町奉行所と南町奉行所があった。このことは時代劇でもおなじみなのだが、実際はきちんと警察組織として機能していなかったという。北と南の各奉行所には、25人の与力と120人の同心がいたのだが、実際に江戸の町をパトロールして回っていた同心は両奉行所を合わせても24人しかいなかったのだ。100万都市の江戸を24人で見回っていた事実を、それだけ江戸が安全な町だったからだと解説する本もあるが、そんなことはあり得ないと著者の永井義男氏はいう。実際は、通り魔事件など物騒な事件は多かったにもかかわらず、庶民が一致団結して自分たちで犯人を取り押さえるしかなかったからだ。町奉行所には庶民を守るという考え方はなかったため、各所で押し込み強盗が多発した際の町触れなど「庶民がみんなで協力し合って強盗を召し取るか殺すかして町奉行所へ突き出せ」というとんでもない内容だった。もちろん、身分制度があったあの時代、刑罰の内容は身分によって不平等なのは当たり前、しかもメインの刑罰が死刑だったのだからブラックすぎると言わざるを得ない。

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江戸は本当にリサイクル都市だったのか?

 江戸はリサイクルが進み、ゴミがほとんどない清潔な都市だったとする説があるが、その説にも永井氏は異論を唱えている。ゴミで埋め尽くされていた川をきれいにしたのも、ゴミを集めて回る芥取請負人という仕事が作られたのも、実は環境を考えたものではなかったからだ。水運のための水路を確保するためにゴミが邪魔になったから集めて他の場所へ移動していたに過ぎず、芥取請負人も町の美化ではなく、埋め立てに利用するためにゴミを集めていたという事情がある。確かに、江戸ではリサイクルが行われていたという事実はあるが、人件費よりも物の値段が高かった時代。高く売れるから捨てずに売っていたにすぎず、環境意識によってリサイクルが選ばれていたわけではないようだ。

人情社会とはほど遠い江戸の人間関係

 江戸の町、特に長屋で生活する人々は人情が厚かったとする説があるが、実際の文献を読んでいくと、かなり冷たく、子どもに対する虐待も多かったことがうかがえる。ふすまや障子1枚で隔てられた住環境のせいで、プライバシーなどないため、事実無根の噂が立つと、簡単に生活が立ち行かなくなる。親が亡くなり子どもだけが残された場合、親戚が集まったとしても誰かが引き取るかなどという話にはならず、どこに売るかという話になる。人情味あふれる裏長屋の風景を頭の中にとどめておきたかったが、あえなくガラガラと音を立てて崩れ去ってしまった。

文=大石みずき