「女とは、何か?」「働く事をやめた時、男性はどうなるのか?」世界の女性哲学者たちが考えた事

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公開日:2016/12/27

『女の哲学 男とはなにか? 人生とは何か?』(宇波彰:監修、 女性哲学研究会:編/PHP研究所)

 デカルト・ニーチェ・カント・ハイデッガー……著名な哲学者と言えば、そのほとんどは男性である。なぜ著名な女性哲学者が居ないのかと言えば、「それは彼女たちの仕事を男たちがきちんと評価しなかっただけ」と言い切るのが『女の哲学 男とはなにか? 人生とは何か?』(宇波彰:監修、女性哲学研究会:編/PHP研究所)である。それに、先んじて挙げた男性哲学者たちに比べれば知名度が低いというだけで、女性の哲学者は大勢居る。例えば「女とは何か?」という設問を徹底的に掘り下げたボーヴォワール(1908~1986)や仕事を離れ、田舎に暮らすようになった男性の物語を小説として表現したアイリス・マードック(1919~1999)などだ。彼女たちの語る哲学は、その生きていた時代もあって女性差別や男性との関わり方などと密接に結びついている。今よりもずっと女性が生き辛かった時代に、彼女たちは何を考えていたのか? その片鱗を見てみよう。

 ボーヴォワールという女性は、フランスに生まれた哲学者で、代表的な著作には『第二の性』がある。この本のテーマこそが「女とは何か?」であり、ピタゴラスの「秩序と光と男を創った善の原理と、混沌と闇と女を創った悪の原理がある」という言葉と、プーラン・ド・ラ・バールの「これまで男が女について書いたことは、すべて疑ってみないといけない。なぜなら、男は裁判官であると同時に当事者でもあるから」という2つの言葉の紹介から始まっている。また、この本では序文から「女とは何か」を何度も問うてくる。例えば、子宮がある者が女なのか? フリルのたくさん付いた服を着ることが女なのか? といった具合だ。さて、この人が執拗に問うてくる「女とは何か?」という問いの答えは何だろうか。一口に女と言っても、「生物としての女」「男性に対しての女」「着飾る性としての女」「守られる者としての女」「子を産む性としての女」など、言い始めれば枚挙に暇がない。さて、この中のどれが女だろうか。また、この中で、社会や男性が望んでいる女は? 更に、女性自身が望む女としての在り方は? 答えは“個人の自由”だ。社会や男性がどんな女を望もうが、それを彼女等が無批判に受け入れてくれる時代は終わった。代わりに、他者が個人の人生や生き方を決める事はおかしいと言われる時代が来たのだ。ボーヴォワールの問い「女とは何か?」の答えにしても、1つの正答を定義するのではなく、個人が自分で考えて自分で決めなければならないのである。

 続いて紹介するアイリス・マードックという女性は、アイルランドに生まれた小説家である。そう、彼女は哲学者というよりは小説家として名を残した人物なのだ。だが、アイリスの小説には哲学的な要素が多分に含まれている。例えば賞を受賞した『海よ、海』という作品は、演劇界に君臨していた主人公が、仕事を辞め海辺の町に引越し悠々自適の生活を始め、そこで、心に浮かぶ物事を綴っているうちに、常軌を逸脱していくといったお話である。演劇界が基盤にある話だから、哲学とは一見無関係に見えるかもしれないが、主人公の演劇界に君臨していたという経歴を外し、単に定年退職後に田舎暮らしをしている男の話として見れば、都会から離れて仕事を忘れた末に現実を見失って妄想だけの世界に生きるようになった男の物語として読む事もできる。そしてそれは「働く性としての役割を背負わされ続けた男性は、いざその役割を失った時、その人生はこの主人公のようになってしまう危険があるのかもしれないよ」というアイリスのささやきとしても読める。男は仕事、女は家庭という従来の性別分業は、女性差別として語られる事が多いが、実は男もまた、その性別分業によって大切な何かを犠牲にしているのだ。

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 我々の社会では、性別によって社会的役割や理想とされる生き方がほとんど自動的に決定される。なぜそうなるかと言えば、かくあるべしという理想的な女性像・男性像が既に常識のレベルで世間に浸透してしまっているからだ。だが、そういった理想像の押しつけは個人の権利を侵害するとして、糾弾される向きが強まっている。この個性尊重の時代とも言える現代においては、女性だけでなく、男性もまた性別に頼らない個人としてのアイデンティティを獲得していく事が望まれ始めているのかもしれない。

文=柚兎