大人は直感的に物事を判断している? 人は生後3か月ですでに論理性を獲得している?『大人の直観vs子どもの論理』
公開日:2017/1/5
一般的に、大人は論理で動き、子どもは直観で動くと思われている事だろう。もちろん論理的に動く事が苦手な大人も居れば、考えに考え抜いて行動を起こす子どもも居るのだろうが、やはり全体の傾向としては、大人=論理的・子ども=直観的という印象はまず覆らないのではないだろうか。ところが、それは実は逆かもしれない。例えば、大人はよく「わかっているけどやめられない」と言う。喫煙者は「タバコが体に悪いのはわかっているけど……」と言い、少々肥満気味の方は「食べちゃいけないのはわかっているけど……」と言う。この場合、基本的にこういった人達には何を言っても意味はない。喫煙者にタバコの害について滔々と説明しても、肥満気味の方に太り過ぎのリスクについて語っても、おそらくその行動が止まる事はないだろう。果たして、それを論理的・合理的と言えるのだろうか? 本当は、大人こそが直感(直観)で動き、子どもこそがいろいろな事を考えた上で、論理的な行動を起こしているのではないか? そう考えたのが『大人の直観vs子どもの論理』(辻本悟史/岩波書店)である。
人は、損をする事をとても嫌がる。例えば、クイズに正解して、確実に1万円がもらえる権利と、50%の確率で2万円がもらえるが外れならばゼロ(何ももらえない)というくじを引く権利のどちらかを選べるとしよう。この場合、多くの人は1万円が確実にもらえる権利の方を選ぶ。数学的に言えば、どちらの期待値も等しく1万円である。しかし、期待通り1万円が確実にもらえる場合と、もしかしたら2万円もらえたのかもしれないのに何ももらえなかった場合を想定して比較した時、人は後者の方が損だと考えるのだ。期待からの落差があるからだろうか。さて一方で、クイズでビリになり、確実に1万円を没収されるか、50%の確率で没収されずに済むが外れれば2万円を没収されるくじを引くかという選択を迫られた場合においては、多くの人がくじを引く方を選ぶ。つまり、損をしない可能性のある方が好まれるのである。これは損失回避バイアスと言い、ほとんどの人間が無意識的に行っている思考の1つだ。おもしろいのは、論理的・数学的に考えれば、いずれの選択肢も期待値は同じという点である。50%の確率で2万円がもらえるくじを引き、仮にそれが外れたとしても、プラスがないだけでマイナスではない。同様に、50%の確率で損失を免れるくじを引いた結果、2万円を払う危険を冒すくらいなら、最初から1万円を払った方が、くじに外れた結果あるかもしれなかった2万円の損失を回避する事ができる。論理的とは、こういう事ではないだろうか。しかし多くの人はこう考えるまでもなく、より損が少ないイメージの選択を直感的に選んでいる。我々が思う「損はしたくない」という気持ち自体は合理的なものだが、損を回避する為に行われる思考は極めて直感的に行われる。大人が考える論理的思考の多くは、もしかしたらこの損失回避バイアスのように無意識に行われている直感的選択でしかないのかもしれない。
一方、子どもはどうだろうか。ピアジェという心理学者は、0歳から2歳くらいの子どもは論理的思考ができないと論じている。代表的なものは、目の前の物が何かの陰に隠れた時、隠れているだけで物体がそこにある事は変わらないと大人は認識できるが、小さな子どもはそうではないという考え方だ。ところが、このピアジェの説にはさまざまな批判がある。実際、ある実験をした結果、子どもは遮蔽物があっても、その向こうにある物の存在を予測できている事がわかっている。そして重要なのが、この実験の対象がわずか生後3か月の赤ん坊だった事だ。見えない事と存在しない事はイコールではないという論理的思考を、人は生まれてわずか3か月の時点で獲得しているのである。もちろん、言語を用いた複雑な論理的思考において、子どもは大人に敵わない。だがこれは論理性の問題というより、むしろ語彙や経験的知識の問題とも言える。そもそも、論理的である事は良い事であると我々は考えているが、実際に論理性を徹底しようと思えば、先述の50%の確率のくじ引きがそうであるようにとても回りくどい事になる。大人が論理ではなく直感で物事を判断しようとするのは、その方が結果を導きだす事が簡単だからだ。より早く結論を出せる方が無意識に選択されているのは、ある意味合理的なのかもしれない。
文=柚兎