“田中角栄を殺した男” はいったい何者なのか? 永田町の舞台裏、政争・駆け引きのリアルを教えてくれるドキュメンタリー

政治

公開日:2017/1/25


『政争家・三木武夫 田中角栄を殺した男(講談社+α文庫)』(倉山満/講談社)

 2016年の日本の出版界は、故・田中角栄元首相の回顧ブームに沸いた。そのきっかけを作ったベストセラー小説が、石原慎太郎氏の『天才』(幻冬舎)だった。政治史を何も知らない人から見れば、石原氏はさぞかし田中氏に近い政治家だったのかな、などと思うだろう。しかし事実は違うようだ。むしろ田中内閣時代、その金権体質の政治を痛烈に批判した急先鋒こそ、石原氏だったのだ。そんな政治家たちの、国民は決して覗くことのできない舞台裏、政争・駆け引きのリアルを教えてくれるのが、『政争家・三木武夫 田中角栄を殺した男(講談社+α文庫)』(倉山満/講談社)だ。

 本書の主人公、故・三木武夫氏(1907年3月17日―1988年11月14日)は、田中氏の直後となる第66代内閣総理大臣に就任した政治家だ。米国留学を経て1937年に30歳で明治大学を卒業するや、すぐに衆議院選挙に無所属で立候補して当選。その後、死去まで51年間連続在任するという、まさに生涯政治家だった人物である。

 本書は、政治家三木氏の評伝であり、戦前から1970年代半ばまでの、歴代の首相の座をめぐる政争が一望できるドキュメンタリーだ。本書に描かれる三木氏の人物像をかみ砕くなら、機が熟したと判断するまで決して中央(首相の座)を狙いに出ては来ないが、いつでも中央に出られる居場所を確保する策略家である。その徹底ぶりを象徴するこんな描写があった。

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 戦後、まだマッカーサー司令官が日本の政界に関与していた時代のことだ。41歳になった三木氏は、当時あった野党勢力のひとつである国民協同党の書記長だった。そんな三木氏に、当時の与党が気に入らなかったマッカーサーから「お前が総理大臣をやれ」とご指名があったのだ。著者曰く、当時のマッカーサーの命令を断るということは、政治生命を絶たれることを意味したそうだ。しかし三木氏は、臆することなく、歴代最年少首相の座へのオファーを断るのである。それはその政権がお飾りに過ぎないことを知っていたからだ。

 そこから26年の年月を経て、三木氏が満を持して内閣総理大臣の椅子を狙いに行くのが、1974年の暮れのことである。この時、田中角栄内閣がスキャンダルと田中式金権政治への国民の嫌悪とにより終焉。その空いた総理の座を射止めたのが「クリーンな政治」を標榜した三木氏だった。

 本書のサブタイトルには“田中角栄を殺した男”とある。田中氏はロッキード事件により逮捕されることになるのだが、その経緯において暗躍したのが首相の三木氏だった。本書によれば、保釈後、田中氏は周囲に「三木にやられた」と漏らしていたそうだ。

 本書はいわば、三木氏を中心に、数名の歴代首相が、その座を得るためになにをしたかを教えてくれる歴史書でもある。その中でも特に田中氏の政治手法に著者は手厳しい。また、三木氏の政治手腕に関しても、決して持ち上げているというわけではない。
 その理由を著者は、あとがきで素直にこう告白する。

 私は、角栄ブームに“トドメを刺す” つもりで本書を上梓した。だからこそ「田中角栄を殺した男」とぶち上げた。
 本書を一読された読者はお気づきの通り、三木の評伝でありながら、まったく三木を賛美していない。むしろ反面教師の政治家として取り上げた。

 本書に描かれる、永田町を舞台にした政争の歴史。そこにあるのは、権力や派閥をめぐる、政争であり駆け引きの力比べ。おそらくこれが、リアルな政治の世界なのだろう。

文=町田光