前方後円墳は平和の象徴だった? 知れば知るほど面白い「古墳時代」

文芸・カルチャー

更新日:2017/11/12

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『前方後円墳の暗号』(関裕二/講談社)

古墳に興味がある方はいるだろうか? 私は大学で史学を専攻していたが、「古墳大好き!!」という人には出会ったことがなく(教授も含め)、自身も幅広く日本史が好きだが、古墳および古墳時代にはそれほど興味がない。
なぜなら、「あの時代、何してたのかいまいち分からない問題」があるからだ。「デカい墓作ってただけでしょ?」という感じだ(古墳ファンの人、すみません)。
しかし、そんな古墳時代のイメージを覆し、新たな歴史観をもたらす一冊が発売された。『前方後円墳の暗号』(関裕二/講談社)である。

古墳時代は3世紀から6世紀末(関東地方では7世紀初頭)までを指す。およそ300年間。ずいぶん長いこと続いている。古墳という「デカいお墓」を造り続け、その造営には民も参加していたはずなのに、苦役に耐えかねて暴動を起こしたというような話も聞かないし、権力を握っていた「ヤマト政権」を脅かすような、豪族の反乱もなかったようだ。よくよく考えてみると、ちょっと不思議な時代なのだ。
※ヤマト政権は「大王」なるトップと、有力豪族の連合政治権力と考えられている。「大王」は後の「天皇」。有力豪族の有名どころは「蘇我」「物部」などが挙げられる。

本書では、「前方後円墳は平和の象徴」だったとして、「造営された理由」、「使役されていた民のスタンス」、「なぜ消滅したのか」などを新たな歴史観で斬新に活写している。
この記事内で、「論拠」と「結果」のすべてを語ることは難しいので、「導入」として結論だけをまとめてみようと思う。ただし本書ではしっかりと史料や専攻研究(古代史学者たちの研究の集大成)などを参考にして理論立てているので、ちょっとでも「どういうこと?」と思った方は、ぜひとも本書で内容を深めてほしい。

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◆古墳(前方後円墳)が造られた理由は?

・人智を越えた神を祀る場として。
・治水事業の一環として。→巨大なため池を兼ねていた。
・「お墓」なので、単純に「死者の霊を祀っている」。
・ただし、祀られた「本人」だけではなく、その祖先の霊を祀っているという意味合いも。
(首長霊が継承された祭祀の場)。
・太陽信仰に結びついている。→日が昇り、沈み、再び昇るというのが「蘇る」つまり「再生」を意味し、縄文時代より日本人にとって太陽は信仰の対象であった。

◆使役されていた民に不満はなかったのか?

かなりの重労働だったはずだが、本書では「奴隷のように働かされ、苦しむ民」ではなかったと推察している。なぜなら、上記したように、前方後円墳は太陽信仰と結びついており、それを理解していた民も、信仰の一環として古墳を造営していたからだ。
亡くなった権力者のために嫌々働かされていたわけではなく、(農業をしている)自分たちに恩恵のある「太陽信仰のため」協力していた面もあり、また、「王と民の祭り」のような考え方もあったのではないか。

◆なぜ前方後円墳体制は瓦解したのか?

古墳時代に有効だった「統治システム」が徐々に機能しなくなり、律令国家(明文法があり、国家が土地を管理する)が始まったから。(古墳時代の始まりと終わりを知る上でのキーパーソンは物部氏なのだが、詳細は本書に譲る)。

前方後円墳は無慈悲な独裁者が民の血と涙を使役し、ただ権力と富を誇るためだけに造られたわけではないと分かっていただけだろうか。むしろ、前方後円墳が造られるようになってから、今まで続いていた「戦乱の世」(弥生時代は稲作が始まり、人口が爆発し身分や貧富の差が生まれ、農地と水を求めて近隣と争うことが多かった)が治まり、平和な時代が訪れたという。(まるで戦国時代が終わった後の江戸時代のようだ)。

本書について、まだまだ語りたいことはあるのだが(物部氏ステキ!! とか、邪馬台国の所在地がいつまでもハッキリしない理由とか……)、そちらは本書を読んで楽しんでもらいたい。

文=雨野裾