教育格差の助長の恐れ? 日本が取り入れようとしているアメリカ学校教育の実態
公開日:2017/3/14
今、日本の教育が変わろうとしている。一昨年6月、下村文部科学大臣は「日本創生のための教育改革」という今後の日本の教育の方向性を明示した。具体的な内容は、早い学齢から職業選択意識を持たせる、大学に就職に直接役に立つ学問を重視させる、などの改革だ。こうした教育改革のモデルは、先進国と呼ばれる世界の国々である。『貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで アメリカの教室に入ってみた』(赤木和重/ひとなる書房)は、モデルのひとつであるアメリカの教育改革の成果が、実際の小学校にどう表れているかを観察した一冊だ。
著者は発達心理学・特別支援教育学が専門の大学院准教授。2015年春から1年間、ニューヨーク州シラキュース大学教育学部に客員研究員として赴任した。予備知識なく住まいを決めた著者は、当然のように娘を地元の小学校に通わせた。登下校に付き添うなかで、小学校の驚くべき実情が目に入ってしまった。常駐の警備員または警官、さまざまな人種、お風呂に何日も入っていないような子の臭い、平気で遅刻してくる子の多さ、朝食の支給など、日本では有り得ない光景ばかり。著者の住まいは貧困地区で、その地域の公立小学校は低学力を問題視されている学校だったのだが、それにしてもこの有りさまはどういうことだ? アメリカの教育は進んでいるとして、日本のモデルにされているのではなかったのか? 著者は戸惑う。
日本が今取り入れつつあるのは、教育の数値化だ。生徒の成績を数値化し、学校同士に競わせる。わかりやすい成果を表すことで、教育現場に緊張感が生まれ、子どもたちの学力向上に繋がるというわけだ。このモデルが、主にアメリカで行われた教育改革だといわれる。現在のアメリカ公教育の姿だ。だが、日本に、改革の成果の例として貧困地区の学校が紹介されることはほとんどない。成果が出ている中間層から富裕層の成功例ばかりが紹介される。
なぜ、貧困地区でこの改革がうまく働いていないのだろうか? それは、子どもたちの学力が上がらない原因が、勉強をしないことにあるのではなく、それ以前の問題にあるからだ。著者は問題を「協調性の難しさ」「言葉の偏り」「考えることの難しさ」の3点だと見抜く。そして、皮肉にも、先生たちが学校全体の学力を上げようと躍起になっていること自体が、この3点の克服を妨げているという。
この地区の多くの小学校では、1年生に朝8時30分から夕方4時まで学校で勉強をさせる。また、幼稚園でも同じく、8時30分から4時頃まで算数・国語・理科・社会の勉強をする。日本のように身体を使うプログラムはほとんどない。たくさん勉強をすれば成績が伸びるという理論だ。確かに、短期的には点数が上がり、学校全体の評価は上がるかもしれない。しかし、体育や遊びの時間を削ることは、協調性、言葉の語彙数、考える力を伸ばすチャンスが削られることでもあると著者は危惧する。
事実、大縄跳びが2回と続かない、子どもたちだけで鬼ごっこができない(おとなが鬼になって、逃げろと言うと喜んで逃げる)など、組織立って何かをすることが苦手だ。また、自分の感情を説明する言葉を持たず、「殺すぞ」「撃つぞ」「刑務所へ行け」などの言葉が頻繁に飛び交う。計算問題はなんとかできても、「水を吸ったスポンジと、吸っていないスポンジのどちらが重いか」が答えられない。多くの子どもたちが、体と頭の働きがばらばらで、落ち着くことができないようすだという。
著者は単にアメリカの教育改革を批判的に見ているのではなく、良い点もしっかり見ている。例えば、人はそれぞれ皆違うという前提のもと個人の自由を尊重する学校の方針だ。皆と同じでなければならないという、日本の学校のような息苦しさがないのは良い。また、低学力の原因が、学校だけでなく、家庭環境にあることもわかっている。両親が刑務所に入っている家庭、難民として移住してきた家庭、第一言語が英語でない家庭など状況は複雑だ。果たして、公教育として、こうした環境の子どもたちに単なるテストでの高得点を求めるだけで良いのだろうか? 彼らの発達の土台を壊しているに過ぎないのではないだろうか?
著者は、彼らが貧困の再生産サイクルにからめとられていくことを心配しつつ、日本も対岸の火事ではないと警告する。貧困から抜け出すために良い成績と高い学歴が欲しいのに、この教育では格差が拡がるだけにならないだろうか? アメリカンドリームという言葉が幻になってしまうのは、あまりにも悲しい。そして、現在教育改革が進行中の日本の未来は? ひとりひとりの子どもたちが、幸せに生きられる教育であってほしいと、強く願わずにはいられない。
文=奥みんす