日本の「部活」の問題点とは? 「自主性」が支配する「部活」のこれからを考える
公開日:2017/3/16
体罰・暴力や死亡事件の報道から、今、部活の是非が問われている。ほとんどの人が部活の思い出を持っており、一家言を持っているだろう。『そろそろ、部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義』(中澤篤史/大月書店)によると、じつに中学生の9割、高校生の7割が部活に入るという。日本では、「部活」が当たり前のように存在してきた。
しかし、世界的にみると、ほとんどの場合、そのスポーツの専門家でもない一教師が、カリキュラムに含まれない課外活動にもかかわらず、仕事の一環として顧問を務める部活は、特異な存在だという。
本書によると、本来は「スポーツ=遊び」のはずの部活が、日本においては生徒の人格形成、身体形成、そしてスポーツ文化の継承という役割を期待されるようになり、それが年々重みを増し、今、持続可能性が危ぶまれるまでに肥大化しているという。学校は「生徒指導のため」、保護者は「しつけのため」、競技団体は「競技普及のため」、教師の熱心な指導が黙認され、昨今の体罰・暴力や死亡事件が生じた、と本書はみている。教師の生活を脅かす過酷な勤務状況も深刻さを増している。
本書は、部活の存続を考えたときに、今こそ部活のあり方を問い直すときだと提言している。
本書によると、部活は戦後民主主義教育という構想の中でベースがつくられ、自分で考え自分で行動する「自主性」を持った人間を育てる、という役割が与えられているという。自主性の理念が掲げられた部活は、だから課外活動であり、生徒が入部するのも退部するのも自由、教師が顧問を受けるのも断るのも自由なのだ。
しかし、本書はこの「自主性」こそが、昨今の問題の根源だとしている。
「自主性」は、ポジティブで魅力的な言葉だが、ときに「行き過ぎ」を伴う。自主的に自由に活動できる部活だからこそ、期待される効果も際限がない。
本書は、これからの部活に必要なのは、「部活の外に目を向ける」ことだと述べる。社会では、「自主性」が素晴らしいからといって、時間外勤務を課したり、体罰を加えたりすることは許されない。法律でそう決まっているからであり、道徳的にも許されないからだ。
部活が必要不可欠ならカリキュラムに組み入れて授業ですべての生徒に与えるべきであり、「自主性」という言葉に甘えて部活に多くのものを求めすぎてはいけない、と本書は考える。教育改革と共に、部活改革が進められることを本書は期待している。
文=ルートつつみ