霊体験を通して家族の絆を確認する―東日本大震災で家族を喪った人たちの「霊との遭遇」ノンフィクション【著者インタビュー 前編】

社会

公開日:2017/4/11

『魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く』(奥野修司/新潮社)

 亡くなった家族や友人が夢に出てきたら、目が覚めた時にあなたは

「会いに来てくれたんだ。嬉しい!」と思うだろうか?

「怖いからお祓いしなきゃ」と思うだろうか? 

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それとも胸にそっとしまって、やり過ごそうとつとめるだろうか?

 『魂でもいいから、そばにいて 3.11後
の霊体験を聞く
』(奥野修司/新潮社)は、東日本大震災で家族を喪った人達が体験した、「霊との遭遇」をまとめたノンフィクションだ。

 妻と娘を亡くした44歳の男性が仏壇の前でごろ寝をしていると、妻が夢にあらわれ『私がいないとつまんない?』とたずねられた。

夫を亡くした71歳の女性が深夜に目を覚ますと、白い衣装をかぶった夫がふわっとやってきて、『心配したから来たんだあ』と言ってすーっと消えていった。

 このように夢に出てくるだけではない。亡くなった子供が好きだったおもちゃが突然動いたり、おじの携帯番号にかけてみたら繋がり、聞こえるはずもない声で『はい、はい、はい』と返事が返ってきたりするなど、被災者による霊体験が1冊にわたりつづられている。

 著者は1977年に発覚した“赤ちゃん取り違え事件”を描いた『ねじれた絆』や、友人を殺傷した高校生がテーマの『心にナイフをしのばせて』(ともに文藝春秋)などを手掛けた、ノンフィクション作家の奥野修司さんだ。奥野さん自身は「霊体験はおろか、亡くなった家族が夢枕に立ったすら一度もない」のに、なぜ霊をテーマにしようと思ったのだろうか?

霊を通して絆を確認する、家族の物語

 「本の中では『看取り先生の遺言』(文藝春秋)で取り上げた仙台の岡部健先生から、死の間際になると先に亡くなった人の姿が見える、『お迎え』という現象があることを聞き、かつ被災地での幽霊譚に導かれて取材を始めたと書きました。しかしよく考えると自分は、“見えないもの”をずっと追っているんですよね。『ねじれた絆』の取材を始めたのは27年も前になりますが、その当時はノンフィクションといえば事件や事故などを扱うもので、『家族の絆を取材したい』と言ったら、周囲にものすごく笑われたんです。私が被災地に向かったのは2011年の4月末頃ですが、当時からボランティアで被災地入りしていた医師の間では『亡くなった家族を見たっていう人がいるけど、ショックによる幻覚だと思うので抗不安剤を処方した』といった話は出ていました。そんな中で霊体験をした人たちが怖がらずに受け入れていたのを知り、霊そのものではなく『霊を通して絆を確認する、家族の物語』を書きたいと思ったんです」

 霊体験をしたという話は耳にするものの、取材者をどう探したらいいか、いざ始めてみたら結構骨が折れたと語る。「お坊さんになら相談しているかもしれない」と思い20カ寺に尋ねたところ、紹介してもらったのはわずか1名だったそうだ。

「なぜなら仏教は『死ぬ間際に見るのは極楽』という考え方なので、お釈迦様や観音様ではなく親や子どもが現れる『お迎え』は否定しているんですよ。それに宮城や岩手にはオガミサマと呼ばれる、死者の口寄せをする巫女がいるので、お坊さんではなくオガミサマに相談する人が圧倒的で。たまたま知り合ったご住職と親しくしていた方に、3歳の子どもを喪った遠藤由理さんがいたので紹介してもらいましたが、あとは取材者に友人を紹介してもらうなどの方法で進めました。

 インタビューは3回以上会うようにしていましたが、最初は質問をあまりせず、ひたすら話を聞くようにしました。その方の体験を受け入れるというか、肯定することで安心して話してくれるのではないかと。でも取材していくうちに、どの方も話ができる環境であれば話したかった、聞いてほしかったと思っていたことに気づいて。『言っても誰も信じないだろうし、おかしくなったんじゃないかと笑われる』と遠慮して、家族の中だけで完結していたのでしょうね」

著者:奥野修司さん

取材・文=今井順梨

◆続きは後編にて