101歳が回想する、ユダヤ人収容所での音楽隊の仕事―。絶望の中でも手を差し伸べる人間は必ずいる
公開日:2017/4/14
第二次世界大戦の終戦から70年以上の時が過ぎ、当時を知る存命の証人たちの言葉は重みを増しつつある。そこには現代人が想像もできないような真実の響きがあるからだ。
『強制収容所のバイオリニスト―ビルケナウ女性音楽隊員の回想』(ヘレナ・ドゥニチ=ニヴィンスカ:著、田村和子:訳/新日本出版社)は、戦時中アウシュビッツ・ビルケナウに強制収容されていた女性が齢98にして出版した回想録の日本語翻訳である。過酷な現実に打ちひしがれながらも、生きることをあきらめなかった人々の姿は数字やデータでは分からないことを教えてくれる。
著者のヘレナ・ドゥニチ=ニヴィンスカは1915年、ウィーンで生まれた。やがてポーランドのルヴフ市に移住し10歳からバイオリンを習い始めた彼女は、厳しくも温かい両親と一緒に暮らし続けていた。しかし、第二次世界大戦が平穏な日々を侵食していく。
ヘレナと母親が逮捕されたのは1943年のことだ。一家に短期間、間借りしていた男たちがナチスに抵抗する地下活動に関わっていたことが判明したからである。母子は刑務所に送られ、9ヶ月もの間、劣悪な環境で過ごすこととなる。排泄物があふれだしたバケツの隣で眠らなければいけない毎日だったが、それですらやがて来る恐怖に比べれば優しいものだったかもしれない。そう、母子を待ち受けていたのはビルケナウの強制収容所への移送だったのである。
現在でもナチスがユダヤ人をビルケナウに強制収容し、虐殺を行っていたと理解している人は多い。しかし、ヘレナが述べるように、ユダヤ人以外の民族が収容されていたことを知らない人もいるのではないだろうか。実際にはナチス占領下の市民なら、誰もがビルケナウに送られる可能性があったといえる。
寝る場所を確保するために囚人同士で殴りあい、一枚の下着を複数の囚人で共有するという悪夢のような生活が始まる。いや、ヘレナの回想は「生活」と呼べるほど生ぬるいものではない。到着直後、女性たちは頭を丸坊主にされたうえ、下半身の毛も男性囚人によって剃られる屈辱を味わう。ビルケナウでは人権は存在しない。あくまで事務的に命を奪われる日を震えて待つだけの時間が流れていたのだ。
そんな中、ヘレナが他の囚人よりも好待遇を得られたのは、彼女が音楽家だったからである。ビルケナウでは強制労働に赴く囚人の意欲を高揚させるため、音楽隊が結成されていた。ヘレナはバイオリニストとして入隊し、重労働を免除されたばかりか、防寒や医療などでも恵まれた環境に身を置くことができたのである。
もちろん、音楽隊の毎日が幸福だったわけではない。朝から晩まで訓練は続くし、指揮者のアルマ・ロゼはどこまでも厳しい女性だった。アルマは有名なバイオリニストだったが、ユダヤ人だったために収容された囚人である。アルマは「音楽隊は楽をしている」と思われることが自分たちにとって不利に働くと知っていた。そのため、隊員に対して優しく振る舞うことは滅多になかった。しかし、アルマの毅然とした態度があったからこそ、ヘレナたちはナチスから保護され続けたのである。アルマの人間性はナチスすらも一目置いていたという。通常、ナチスは囚人を番号でしか呼ばない。しかし、アルマだけは名前で話しかけられていたのだ。
囚人たちが強制労働を命じられ、ときには処刑されている側で演奏をし続けることに、ヘレナは葛藤する。隊員の中にはうつ病を患った者もいた。それでも、ビルケナウ全体の生存率を考えた際に、音楽隊が生き残った割合が驚異的なのは事実である。ヘレナはこう考える。
あのような非人間的な状況にあっても、過酷な運命に打ち克つように、あるいは辛い体験を少しでも和らげるようにと他の人たちに手を差し伸べた人間がいた
アルマたちリーダーの強さや隊員同士の友情は、絶望に負けない人間性を読者に教えてくれるだろう。
文=石塚就一