日本の「初体験」は幕末の横浜に詰まっている! パン、カレーライス、せっけん、クリーニング屋……日本の「はじめて」知りたくないですか?

社会

公開日:2017/4/18

『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』(斎藤多喜夫/明石書店)

 日本の「西洋文化初体験」は幕末の「外国人居留地」から始まる。

 幕末、アメリカなどの5か国と結ばれた「通商条約」によって、外国貿易のために横浜、長崎、「箱館(現在の函館)などの5港が開かれた。それに付随して外国人向けに開かれた町を、「居留地」と呼ぶ。

 居留地に住む欧米人は、母国と同じ生活ができるように西洋の文化・風俗を持ち込んだため、居留地は≪欧米の地方都市のような市街≫になっていったという。その居留地の珍しい西洋文化を、日本人は貪欲に吸収しようとした。そのため、居留地を媒介とし、衣食住や娯楽・スポーツ、その他さまざまな分野で、「西洋文化の移転」が行われたのだ。

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『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』(斎藤多喜夫/明石書店)は、幕末から明治期にかけて始まった横浜居留地からの「文化移転」についてまとめられた研究書である。

 読んでみて驚いたことは、パンやカレーライスといった今でも愛される食べ物が、思っていたより早く日本に入ってきていたこと。

 西洋文化の流入は明治政府が樹立した後、徐々に日本国内へ知れ渡ったのだと思っていたが、幕末――つまり、正確に言えばまだ「江戸時代」から、その存在を知っている日本人がおり、それを「商売にしよう!」と考えた商魂たくましき人々も多くいたのだ。

 本書ではホテル、クラブ、肉食、畜産業、病院、衣服、娯楽、スポーツ、学問など、幅広い分野にわたって、かなり早熟な「日本の初体験」を読むことができる。

 それでは一緒に、「日本の初体験」を追ってみよう。

◆横浜で最初に作られたパンは「ゆでだんご」?

「パン」はポルトガル語が起源の言葉で、江戸時代にも「小麦粉を用いた蒸餅のようなもの」という知識はあった。その「パン」を本格的に商売にしようと考えたのは、内海兵吉という日本人。

 彼は1860年(開港の翌年/明治が始まるのは1868年)、父親が江戸で菓子屋をしており、似たような商売をしようと考え、横浜でパン屋を始めた。だが、良質なイースト菌が手に入らず、「ヤキイモ釜のようなものでいい加減に焼いた」ため、「パンだか焼饅頭だか、何だかわけのわからない物」ができたとか。

 一応、内海はフランス軍艦の乗組員コックから手ほどきを受けたらしいが、日本の小麦粉で作ったパンは、「ゆでだんご」のような出来上がりだったとか。それでも、「外国人の食べる物がないので」よく売れたという。

 内海の開いたパン屋は明治時代まで続き、明治末には「元祖食パン」の評価を確立したが、昭和40年に廃業してしまった。

◆カレーライスの日本上陸

 日本国内でのカレーライスに関する最も早い記録は、岩崎次郎吉という男の残した証言だ。後年の回顧談なのだが、彼は幕末にイギリス領事ヴァイス夫妻のもと、3年間台所で働いていた。当時、居留地の商館や公館では多くの日本人や中国人が働いていたのだが、岩崎もその一人で、エミンというフランス人のもとで料理を覚えたそうだ。

 岩崎の証言にはこうある。

「ヴァイス夫妻は日本の米が大好物で、『炊きたての飯をカレーソスもかけず』そのまま喜んで食べたという」。カレーソスは、カレーソースのことだと考えられる。

 また、岩崎だけではなく、外国人の証言からも幕末の横浜にカレーライスがあったことを裏付ける記述も残っている。

「(カレーライスは)日本でなされている唯一特殊なヨーロッパ人の食事」というもの。カレーは存在したが、それに「米」を合わせる食べ方は横浜から発展したようだ。もちろん、真似をした日本人もいただろう。

「西洋洗濯業」つまり、洋服のクリーニング屋を始めたのは渡辺善兵衛という熊本の人で、1861年頃だったと推定される。石鹸(せっけん)に目をつけたのは横浜近郊に住んでいた堤磯右衛門という男性。明治5年には石鹸の輸入が多いことを知り、「輸入ではなく、国産で作ろう!」と石鹸の製造事業を計画したとか。

 横浜から西洋文化を積極的に取り入れようとしたのは、教科書には載らないような「一般人」であった。そして十分な予備知識もなく居留地に飛び込み、試行錯誤を重ねながら貪欲に西洋文化を摂取しようとした熱意あふれる日本人がいたことは、現代人が見習うべき姿かもしれない。

文=雨野裾