発達障碍者が抱える困難の1つ、感覚過敏。音が聞こえすぎて逆に聞こえなくなってしまう?
公開日:2017/4/20
自閉症などの発達障碍は、近年知名度が上がってきている。その当事者達がどんな困難を抱えているかというと、コミュニケーション能力の面に注目されがちだ。だが、彼等が抱える困難は、コミュニケーションに関する問題だけではない。そのひとつが、感覚過敏というものだ。これは、その名の通り感覚が通常よりも過敏に反応する症状を指す。感覚が過敏になると聞いてもイメージが湧きにくいだろうが、当事者にとってこれは多大な苦痛をもたらす症状なのだ。その感覚過敏を当事者の声を交えて解説しているのが『自閉症と感覚過敏 特有な世界はなぜ生まれ、どう支援すべきか?』(熊谷高幸/新曜社)である。
感覚過敏の具体例として、ここでは聴覚過敏を例にとって少し解説する。例えば定型発達者(身体や精神の障害で発達に遅れが出ることなく、成人した人間のこと)の場合、ある程度雑音が多い場所においても隣に居る人の声は聞こえるし、当然会話もできるだろう。だが、聴覚過敏を持つ人の場合、これは非常に困難な事となる。感覚が過敏になるならむしろ周りの音はよく聞こえているのではないか? と思われるかもしれない。確かに、聴覚過敏の当事者は通常なら聞こえないはずの音を聞き取っている場合もある。それならばどうして、隣に居る人との会話が困難になるのか? 答えは簡単だ。音が聞こえ過ぎているからである。つまり、周りの雑音全てを聞き取っている為、隣に居る人の声がその中に紛れ、逆に認識できなくなってしまっているのだ。定型発達者の場合、不必要な音は脳が自動でカットしていて意識される事はまずない。しかし、発達障碍者の中にはこのノイズをカットする脳の働きが行われない人が居る。これによって生まれるのが“音が聞こえ過ぎて個々を聞き分けられない”という状況、つまり聴覚過敏という症状なのだ。発達障碍者が人込みや騒がしい場所を嫌がるという話はまま耳にするが、これはまさに聴覚過敏を持つ人が見せやすい行動のひとつだ。定型発達者にとっては無視できる程度の些細な音も、当事者には思わず耳を塞ぎたくなるほど不快な音として聞こえている場合もあるという事である。
感覚過敏と一口に言うが、それは先述した聴覚過敏の他にも、視覚過敏・触覚過敏・嗅覚過敏・味覚過敏などがある。つまり、五感であればそのどれにでも過敏性は現れうるのだ。聴覚過敏を例にとった話を先述したが、これと並んで代表的なものが視覚過敏だ。この場合は、新しい場所や視界の変化を恐れ、結果、物の配置や並びにこだわりを持ち、時に過去の視覚的記憶が突然蘇る事もある(フラッシュバック)。そして、光の刺激に弱く、定型発達者には普通の光量でも、視覚過敏の当事者にとっては目を細めるほど眩しく感じている場合もある。また、感覚過敏がいわゆるこだわり行動として現れる場合もある。聴覚過敏であれば、特定の言葉・歌を何度も繰り返す、視覚過敏であれば、物の配置などに異様なこだわりを見せる事がそれだ。特定の物にこだわり、変化を恐れるのは自閉症の大きな特徴のひとつだが、その理由は感覚過敏によって多くの情報を処理せざるを得なくなっている為、少しの変化でもそれに伴う衝撃は当事者にとってとてつもないものなのだ。また、特定の言葉などを何度も繰り返す様は、客観的に見れば首を傾げる事だし、それを会話の中で行われると殊更奇異に見えるだろう(話題を何度変えても同じ話しかしない、など)。強いこだわりだったり、コミュニケーションの問題だったり、自閉症を始め多くの発達障碍者が抱える困難は、実は感覚過敏に根差したものだとも言える。
感覚過敏は、勿論それ自体も苦痛や困難につながるが、それと同等(時にはそれ以上)に困難となるのが周囲の理解を得る事だ。多くの場合、人は自分と他人の感覚の差異を認めても、それは誤差として大して気に留めない。その為、当事者が感覚過敏を訴えても「気のせい」「気にしすぎ」と取られ、時にはわざと大袈裟に振る舞っていると誤解される事すらある。だが、ここで語ったように、当事者達は感覚過敏を抱えるが故、定型発達者よりも多くの情報を処理せざるを得ない状況にある。その過程で、定型発達者と違う反応をしてしまうのは仕方のない事であり、ある意味当然でもあるのだ。自分と人の感じ方は同じではない。当たり前の事のように聞こえるかもしれないが、今一度この言葉を見直してみても良いかもしれない。
文=柚兎