黒木渚ロングインタビュー「私のルーツは音楽ではなく文学」
公開日:2017/5/6
一度聴いたら、耳から、心から離れない。独特の文学的な歌詞で生々しく女の強さ、生を歌い続ける孤高のミュージシャン・黒木渚。ライブで仕掛ける演劇的要素、アルバムやPVで見せるアート的発想……。様々な表現を展開してきた彼女が、ついに真骨頂である小説をリリースした。デビュー作『本性』に込めたものとは──。
「一年後に死ぬわよ」と占い師に言われたサイコは、2年後の今も生きている。モノしか愛せない友人・エリちゃんと一緒に。普通って何? 変って何よ? こじらせ女子の行き着く先は──「超不自然主義」、夫との生活に不満を持ち、出会い系サイトで知り合った男に会うため、東京へ向かった恵。だが、男とはうまくはいかず、飛び乗ったタクシーで放浪を始めるが──「東京回遊」、ある日、パチンコで大勝ちした、その日暮らしをする岩崎。そんな彼に声をかけてきたのは風俗嬢のアッコ。二人は一緒に住むようになるが、まともに愛し合っていられたのは束の間。二人の愛は奈落の底へ──「ぱんぱかぱーんとぴーひゃらら」どうしようもない、けれど愛しい人々が息づく連作小説集。
くろき・なぎさ●1986年、宮崎県生まれ。2010年、バンド“黒木渚”を結成。12年に『あたしの心臓あげる』でデビュー。14年よりソロ活動開始、1stアルバム『標本箱』をリリース。15年には Single『虎視眈々と淡々と』、全曲ラブソングSingle『君が私をダメにする』、2nd Full Album『自由律』を発表。16年 Single『ふざけんな世界、ふざけろよ』、配信シングル『灯台』をリリース。
私のルーツは音楽ではなく文学
この人と、言葉の間にある物語には変遷がある。
厳格な学校の寄宿舎で過ごした中・高時代、そこでひたすら向き合っていたのは図書館の蔵書。そののち、大学で出会った教授の影響により大学院では英米文学におけるポスト・モダン文学を専攻した。自分の内に蓄積されてきた膨大な数の言葉。その水流が外へと向かった先は、まず音楽だった。
「普通は音楽が好きで、たくさん聴いて、そこから音楽を生み出していくと思うんです。けれど厳しい寮生活を送っていた私は、音楽と簡単には触れ合えない環境にいた。娯楽と言えば読書。そこから得ていった言葉のストックが、アウトプットの源になっていったんです」
「私のルーツは音楽ではなく文学」と語る黒木渚の書くリリック、つくりだす楽曲は、ストーリーに満ちている。たとえば11人の女の人生が閉じ込められたアルバム『標本箱』は、その物語にインスパイアされた鶴岡慧子監督が、昨年、映画『うつろいの標本箱』を制作したほどに。
「インプットとアウトプットの形が違うところが、ストーリーテラーみたいな作品づくりに深く関わっているのかなと思います。そのアウトプットの水門が、もうひとつ開いたのが、2ndアルバム『自由律』の初回限定版に同梱する形で上梓した小説作品『壁の鹿』でした。リズムや音のない世界で“書く”ことは、私にとって、とても新鮮で。書いていくなかで、自分の言葉が“これは音楽に、これは小説に”と、ひよこの雌雄選別みたいにより分けられていくのを感じていました」
その新しい水脈は、さらに流れをつくっていった。
「CDと同梱という形であったけれど、読んだ方からリアクションをいただき、すごく報われた気持ちになって。すると、おのずとテイストの違うものを書きたくなってきたんですね。誰に読んでもらうということでもなく、書き始めたのが、「超不自然主義」という一編でした」
初の単行本『本性』の冒頭に位置するその一編は、ページを開くなり、言葉を叩きつけてくる。
“あなた、一年後に死ぬわよ”。
“普通”って、フラットな視点を持っていることとすごく近いところにある
“普通すぎてつまんねえんだよ、お前!”。そんな聞き捨てならないセリフを吐いて、主人公・サイコのもとを去っていった彼。守りの固さを持って生きてきた、みずからの概念を破壊してやろうと、会社も辞め、自暴自棄になっていたサイコの前に現れたのは、全身紫色をまとった胡散臭い占い師。女が発した“一年後に死ぬ”という言葉を聞き、サイコは笑い出す─その2年後、いまだ元気で生きている(しかも占い師になっている)彼女の日々が「超不自然主義」では語られていく。
「“普通って何だろう”という、私自身の素朴な疑問から、この物語は始まっていきました。普通でつまんねぇって言われ、だったらアブノーマルな方向で、物事を選択して生きてやるってサイコは思うんですけれど、世の中って、それを上回るくらいナチュラルに個性的な人がたくさんいる。そういう人たちのなかで生活していく彼女とともに、普通とか、変とか、そういうものを相対的に考えていくストーリーになりました」
そこには自身が10代から身を置いてきた音楽業界で、鋭敏に感じてきたものが投影されている。
「尖っている、個性的、鬼才……音楽の世界では、奇抜な人なんて当たり前のようにいる。ここに飛び込んできたときは、普通でいてはダメなんじゃないか、変にならないと埋没してしまうんじゃないか、という問題を抱えてしまった。けれど一周廻って今は、“普通”っていいなぁと考えている自分もいて。“普通”って、フラットな視点を持っていることと、すごく近いところにあると思うんです。そして、その視点を得ることができたなら、世の中をもっと面白く観察できるんじゃないかって」
サイコが一緒に暮らしているのは、対物性愛という特殊な性的指向を持つ7歳年上のエリちゃん。2年前に地蔵(辻に立っていた本物の)と結婚した彼女との暮らしは、面白い観察の連続だ。
「小学生の頃にドキュメンタリー番組で観た、エッフェル塔と“結婚”した対物性愛の女性の話が、私のなかに強烈に残っていて。変を振り切った人を描こうと思いついた、ある場面がそれと結びつき、エリちゃんが出てきました。あの時の引き出しがやっと開いたという感じでした」
そんなエリちゃんは、さらに振り切った行動を重ね……。だが、それと対峙するサイコの視点は、“普通”のなかで振り切ることのカラッとした明るさを読後に残していく。世の中、何が起こってもそんなに不思議じゃない。むしろ、そのことを愉快に思えたら─という明るい哲学。そこには、黒木の持つ独特な死生観も漂っている。
「小説を書くときも、曲を書くときも、私は同じ信念を持っていて。死を優秀なリミッターのようなものとして捉えているんですね。死があるから、それまでの生が凝縮してくる、濃度が高くなっていく。使いようによっては素晴らしいリミッターになっていく。それを常々思い出していたほうが、絶対愉快になる─ということを考えていると、つい死の影が創作のなかに出てきてしまうんです。一方では“死ぬ”って、官能的な気持ちと近い気がしていて。意識がなくなるとか、目が見えなくなるとか、昔の文学作品からの影響もあると思うんですけど、私のなかで、ちょっと甘美なイメージともくっついている」
世の中を見ていると嘘っぱちのなかで本当のものが見つかるときがある
本書を上梓した経緯には、“なるべくしてなった”としか言いようのない経緯があった。ラジオから流れてきた黒木渚の歌を聴き、“この人に小説を書かせてみたい”と、黒木のことを調べ始めた編集者が出会った『壁の鹿』。作品を読み、即、執筆のオファーをかけたタイミングで、黒木が書き上げていた「超不自然主義」。そこから『小説現代』への掲載、さらに他2作の執筆が始まった。
「『壁の鹿』は、小説を書くのが初めてということもあり、文体もテーマも、全体的に重たいテイストになりました。それを書き上げたあと、次は、ちょっと明るくてポップで、泣き笑いみたいなものが書いてみたいと思って。『本性』に収めた3作は、どれもそんな方向へと転がっていきました」
“上田恵は手を挙げた。長身の体から伸びた腕は避雷針のようだ”─夫と喧嘩し、東京へ“家出”してきた専業主婦が、タクシーに乗り込む場面から始まる「東京回遊」は、“虚構”というテーマで書き進めていったという。
「世の中を見ていると、嘘っぱちのなかで、本当のものが見つかるときがある。この1作は、その一例として書いてみようと思いました。タクシーに乗った主人公がするのは、気まぐれで嘘をつきながらの運転手との会話。それを自分の密やかな楽しみとして」
“言葉は世界を描写するためのものではなく、自分の人生を美しく装飾するためのもの”─ロマンチストな母にそう教わってきた恵は、自分を福岡で活躍しているタレントだと運転手に語る。感嘆する彼に、満足の笑みを浮かべながらも、脳裏に浮かんでいくのは、自己顕示欲を暴走させ気味の彼女が育てて来た欲望と、それらが満たされることのない現実の日々。
「この話は、タクシーのなかで思いついたんです。そこで、本も出していないのに、“私、小説家なんです”って嘘をついて、会話をして。何台ものタクシーに乗り、運転手さんに向かって、その虚構を繰り返していきました。“取材なので、レコーダーを回してもいいですか?”と訊くと、饒舌に語ってくださる方も、時には過去の話をしてくれる方もいて。でも、それは嘘っぱちかもしれないんです。けれど私にとって、その話は役に立っているし、救われもした。そういう仕組みをこの物語では描きたかった」
虚構の、華やかで幸せな日々を語る恵に呼応するごとく、運転手も自分のことを語り出す。そして、彼女がタクシーを降りる時がついにやってくる。だが、ストーリーはラストにあるひとつの転換を見せる。そこに広がる景色は胸をきゅっと締め付ける。
「私がそうであったように、恵もタクシーの中の会話から救いをもらう。けれど、その後は、自分の現実を生きていかなければならない。彼女は夢を追いかける自分のエネルギーに対して、実はうんざりもしていると思うんですよね。それは差こそあれ、きっとみんなが抱えていることで。そこから解放されるには、というところへ、物語は向かっていきました」
書くことと一緒に冒険したい
「書けば書くほど面白くなってくるし、書けば書くほど悩むし、それはすごくスリリングで、楽しいこと」と、黒木は言う。
「書くことと一緒に冒険したい」。3作目の「ぱんぱかぱーんとぴーひゃらら」は、そんな一念で、見たことのないところ、行ったことのないところへ飛び込みで出掛け、取材を重ねて執筆した1作だという。何が飛び出してくるのかわからない、そんな予感の過るタイトルは、取材時の黒木の心境にも重なるようだ。
「トランペットのレコーディングをしている日に、フレーズを吹いてもらったら、“ぱんぱかぱーん”って聞こえたんです。おちゃらけたおもちゃみたいに。そのとき、“いいな”って(笑)。ぱんぱかぱーんとぴーひゃららで、お祭り、カーニバル、お囃子を連想し、そこから、ボロボロな人たち、最低な人たちが、愚か者の大行進をするみたいな、でも本人たちは楽しくやっているみたいな、そういうアンバランスなお祭りみたいな物語を書けたら、というイメージが湧いてきて」
足繁く通い始めたのは、日雇いの作業員が闊歩する街、風俗街、パチンコ店。デリヘルの店長にアポを取ってもらい、風俗嬢にも会いにいった。
「風俗嬢がどういうシステムで働いているのか、客にどういうことを要求されるのかなど、事細かに聞いて回りました。そして、なぜその世界に入ったのかということも。取材に行く前、彼女たちには、可哀想な事情があるんじゃないかと、私は勝手な想像をしていたんですね。けれど、そんなことはなくて。たとえば家族が病気でとか、借金のかたに売られて、というのは、ごく少数で、大半の方が“だって、欲しいものがあるんだもん”というような、カラッとした簡潔な世界だった。そのとき、世間の物差しでどう思われようと、彼女たちは彼女たちなりに、すごくハッピーに人生を歩んでいるんだ、ということがわかったんです」
その感じをそのまま書けたら─と出て来たのが、日雇いの作業員の岩崎と風俗嬢のアッコだ。パチンコ店で大当たりを出していた岩崎に、“お祝いに抜いてあげようか”と近づいてきたアッコ。ひと悶着はあったものの、その日のうちに一緒に暮らすことを決める二人。そこから愚か者の大行進が始まっていく。
「乱暴だし、動物的だし、単純だし、なんかダメだなぁ(笑)って、二人とも。でも、それでいいのかなぁと」
設定が固まってきた段階で、作るのは人物の全データ。年齢、家族構成、顔つき、皮膚の色まで。二人の生活描写は、生理的な部分に直結する、生々しい匂いに満ちている。“愛は暴力の反対側にあるもの”と信じるアッコの愛情の形も。
「私自身は、必ずしもそうは思ってはいないんですけれど、世の中にはわりと多めの女性が、殴る男性と付き合っている。どうして?って不思議に思っていたんですけれど、いろんなサイトの書き込みを見ていると、彼女たちのなかで、“この人は悪くない、本当は優しい人”という、男性を美化するシステムみたいなものを作っているんだなぁということに気付いて。肉体的な苦痛を精神的な安らぎに変えていく、すごい濾過装置みたいなものを」
そんなアッコと岩崎が漂っていく先は……。「東京回遊」の恵がしていたこととは真逆の、現実の生活を一切、言葉で装飾しない人たち。けれど自分の心にだけは装飾を施している。アッコが唱えるのは、ひみつのアッコちゃんの“テクマクマヤコン”。そして日雇いでユンボを動かす岩崎が、心の内で操縦しているのは、超合金マジンガーZ。
「岩崎の年齢を考えると、彼のヒーローの原体験は多分、マジンガーZなんですね。私は違う世代なので観たことはなかったんですけど、アニメシリーズを観たら面白くて。このヒーローをずっと胸に抱いて、大人になるって、ちょっといいかもって(笑)」
ユンボのマジンガーZを操縦する男が語りゆくラストシーンは、これを滑稽だと笑えるのか?という問いを投げかけるくらい、生の匂いに満ちている。
吐き出されたものは“本性”だったなと
昨年8月、黒木は喉の病気のため、ライブ活動を休止した。
「物理的に声が出なくなってしまって。ひとつ奪うにしても、なんで私から声なの?と、運命を恨みました。声が出ないと、圧迫感というか、疎外感というか、普段気付かないだけで、すごい声を使っていたんだってことにも気が付いて。ひと言も発することができないと、夢のなかからも音声が消えるんですよ。そんな淋しいところにぽつんと放り出された自分がすがったのは文字でした。どうしよう、ヤバい、このまま復帰できなかったら……という焦りの一方で、“書く、ということがあってよかった”という強い想いがありました」
3作を貫くタイトルには、数多の候補があったという。けれど、“これを書いていたときの心境をつけてみたらどうか”というアドバイスで、心は決まった。『本性』。
「声を奪われた怒りのなかで、書き続けていた3作。それをぎゅっとまとめたら、吐き出されたものは“本性”だったなと。私のドちくしょうみたいなものが詰まっている」
本作がリリースされたのは4月18日。偶然にも自身の誕生日。それは“小説家・黒木渚”のバースデーともなった。そんな喜びに輪をかけるのが、『壁の鹿』の文庫版刊行だ。何かに躓いている人々の前で喋り出す鹿の剥製。人の“破壊と再生”というテーマを語りゆく同作は、CDと同梱という形でありながらも、文学に関わる数多くの人々の間で高い評価を得て来た。
「死んでいるのに、生きたままの姿をした奇妙な存在である剥製。そんな中立の世界にいる者と出会い、導かれていく人々の打ち砕かれる様を描きたかったんです。そして、その人たちが持つものがたとえ歪んだ欲望であっても、その人だけの幸せな完結を目指し、再構築していく過程を」
解説は、「偶然なのか、必然なのか、この小説に巡り会えたことに感謝している」と、この作品を絶賛した山田詠美から寄せられた。
「感激しました。壁の鹿の声は、孤独の代弁である、という表現を山田さんはされていらっしゃって。自分の相棒として抱いていた、生き物ではない存在がかつていたこと、それを慈しんでいた時代を、“みんなもそうでしょ”と投げかけてくださったこと……最たるご褒美をいただいた気持ちです」
『本性』、『壁の鹿』─黒木渚の本格的な小説家始動を告げる2冊は、テイストがまったく違う。けれど双方を読むことで、自分の内にある途切れていた水脈がつながっていくような感覚が目覚めてくる。ぜひそれを体感してほしい。そして、黒木渚のお願いをぜひ聞いてほしい。
「まず読んでください。一生のお願いです。それ、今日、使います(笑)」
女子校の寄宿舎で暮らすタイラは、父との確執ある生い立ちから級友を寄せ付けずにいた。だがある日、書斎の壁に飾られた剥製の声が聞こえたとき、孤独な魂に革命が起こる。結婚詐欺師のマシロ、恋愛依存症のあぐり、孤独な剥製職人・夢路――鹿との対話から、躓いている人々が見出す破壊と再構築の形とは――。
文=河村道子 写真=冨永智子