50のシングルの誕生秘話が一つの物語に。『コイズミシングル~小泉今日子と50のシングル物語』著者インタビュー

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更新日:2017/5/28

 小泉今日子の歴代シングルを3枚組50曲で完全網羅した『コイズミクロニクル~コンプリートシングルベスト 1982-2017~』(ビクターエンタテインメント)。その初回限定盤プレミアムBOXに収録される書籍が『コイズミシングル~小泉今日子と50のシングル物語』。全シングル制作に携わった関係者への総力取材で、小泉今日子の音楽史を紐く全368ページのメイキング本だ。

 今回は、同書で約70人ものミュージシャン、作詞家、作曲家、編曲家、ディレクターなどの証言をまとめ上げ、一つの物語として仕上げたライターの松永良平さんにインタビュー。同書の成立過程や、そこで披露されたエピソードの裏側を聞いた。

――松永さんご自身は、いつ頃から小泉さんの曲を聞いていたんでしょうか?

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松永 僕は年齢的には小泉さんの少し下で、音楽は好きだったんですが、はっきりと曲を認識したのは中学生になってからで、『まっ赤な女の子』『艶姿ナミダ娘』といった楽曲を「すごくいい曲だな」と思って聞いていました。5歳下の弟とお風呂で歌ったりとか(笑)。田舎の中学生なりに、ここを境に小泉さんの曲が明らかに新しいサウンドに変わったことはわかったし、弟は弟でなによりキャッチーで歌ってて楽しい曲だから一緒に歌ってたんだと思います。それ以降も、その時々で面白いことをしている小泉さんが気になっていましたし、『あまちゃん』も凄く好きで見ていましたね。

――今回の『コイズミシングル~小泉今日子と50のシングル物語』では、70人ほどの関係者にインタビューやアンケートを行ったそうですが、特に印象に残っているエピソードは何でしょうか?

松永 意外性という意味では、初代ディレクターの髙橋隆さんのお話ですね。多くの人が持っているアイドル・小泉今日子のイメージは、『まっ赤な女の子』以降のものだと思いますが、髙橋さんからはそれ以前の小泉さんの姿や、デビュー当時のスタッフが考えていた方向性について聞くことができました。いきなり『まっ赤な女の子』以降の話から始まると、小泉今日子というアイドルがミュータント的な存在に見えると思うんですが、髙橋さんの話す最初の4曲のエピソードが入ることで、70年代と80年代の歌謡曲・アイドルを橋渡しすることができたのかなと思います。

――確かに、小泉さんが「石野真子の後継的なアイドル」と目されていたという話を読んで、初期の曲調の背景が分かり、小泉さんも何十人といた当時のアイドルの1人だったんだな……ということが分かって面白かったです。そして、『まっ赤な女の子』でディレクターが田村充義さんに変わったところから、今の小泉さんのイメージが形作られていったわけですね。

松永 それは間違いないですね。田村さんなくして小泉さんの音楽ヒストリーはないはずなので、「まず田村さんの話が軸になる」ということは、最初の段階で決まっていました。

――そのほかに本書を制作する上で決めていた方針などはありましたか?

松永 一つは「話を聞ける人にはどんどん聞いていこう」ということです。彼女の作品は、作詞、作曲、編曲などで関わった人の人数が本当に多く、中にはさほど語られてこなかった曲もありました。最初は音楽ヒストリー上の重要人物何人かを中心にインタビューを行う予定でしたが、もっと多くの方の話を聞くことで、1曲ごとのエピソードにも厚みが出すことができましたね。また、「作詞家としての小泉今日子にはインタビューはするが、シンガー、アイドルとしての彼女にはインタビューしない」というのも最初にこの本の制作スタッフで決めたことです。楽曲に連れて行かれる形で、小泉今日子のキャラクターも変わっていった……という書き方のほうが、話が多面的で面白くなるのかなと思っていました。

――小泉さんのように、曲ごとに作詞、作曲、編曲で関わる人が変わり、新しいクリエイターとも積極的に関わっていく……というのは、当時のアイドルではやはり珍しいことだったんでしょうか。

松永 そうですね。その点については、やはりディレクターの田村さんのセンスに負う部分が大きいと思います。

――田村さんのお話で特に印象に残ったことは何でしょうか。

松永 一つ意外だったのは、アイドルを手がけるのが初めてで、どうしようか悩んでいたということです。そして「アイドルとはこういうものだ」という公式を学んだり、それに従ったりしようとはせず、試行錯誤しながら、自分のやりたいこととの接点を見いだしていく過程がとても面白かったです。田村さんはそれ以前のキャリアでは、スペクトラムや『東京ニュー・ウェイブ’79』、山田邦子のレコードなどを手がけてきた方ですが、そのような経歴の持ち主にデビュー2年目のアイドルを任せたことも慧眼だったと思います。

――小泉さんの代表曲の一つである『なんてったってアイドル』についても、少し前にリリースされ大ヒットしていた『セーラー服を脱がさないで』を田村さんが強く意識し、その曲の作詞を手がけていた秋元康さんに作詞を依頼した……というエピソードが面白かったです。

松永 そこも田村さんのセンスですよね。ただ、田村さんはいきなりそうしたのではなくて、とんねるずを通じて秋元康さんと仕事していましたし、『まっ赤な女の子』のB面の『午後のヒルサイドテラス』でも当時新進の作家だった秋元さんに作詞を依頼していたという積み重ねがあった。だからこそ、秋元さんに依頼するアイディアが浮かんだのだと思います。

    松永良平

――曲の出だしをライブ仕立てにするアイディアも田村さんの発案だったそうですね。また、歌い出しが「なんてったってアイドル」という歌詞から始まるのが筒美京平さんのアイディアだったという話も初めて知りました。

松永 様々な関係者の話が交錯する形で、また面白い見せ方ができるのかな、とは思っていました。この曲に関しては、エンジニアやマスタリング/カッティング・エンジニアの方たちまで含めて、「どこまで普通からはみ出したものを作れるか」と挑戦をしていたことが取材で分かり、その部分は僕もとてもおもしろかったです。

――小泉さんは90年代前後になると近田春夫さんや藤原ヒロシさんとも一緒に作品を作るようになります。松永さんのように音楽をたくさん聴いていた当時のリスナーから見ても、「やっぱりキョンキョンって凄いな」という感覚はあったのでしょうか。

松永 『KOIZUMI IN THE HOUSE』(89年)が出たときは驚きましたが、決してそれが変化球に感じられないというか、「このぐらいは彼女だったらやるよな」という感覚もありました。その頃にはすでに小泉さんも一般的なアイドルというイメージを超えて我が道を行く存在に見えていました。

――小泉さんにそういうイメージがつき始めたのはいつ頃なんでしょうか。

松永 個人的には『水のルージュ』が印象に残ってますね。『水のルージュ』は、ちょっとハウスっぽいアレンジを取り入れた曲で、僕らはまだそれが何なのかは知らなかったけど歌謡曲の範疇を飛び越えようとしていることは感じましたし、当時自分が聞いていたNew Orderのようなイギリスの音楽とも違和感なく同居する雰囲気がありました。その後も小泉さんの曲はリリースのたびにハードルを自然と高く設定し、なおかつそれを越えていっていた印象でした。

――そのように当時の音楽シーンの最先端と交わる曲がある一方で、『学園天国』をカバーしたシングルが間に入ってくるのも面白いと思いました。

松永 『学園天国』が収録されたカバーアルバム『ナツメロ』は僕も好きでしたし、『アクビ娘』のような曲をチョイスするセンスは最高ですよね。そういうところで一度も“外していない”のも、小泉さんの凄さの一つだと思います。変な外し方をすると「やらされている感」「作られた感じ」が出てしまいますが、小泉さんにはそれがないんです。セルフプロデュースがしっかりできていたからこそ、どんな新しいことに挑戦しても、面白い作品を作れたんだと思います。

――やはり田村さんのディレクションだけでなく、小泉さん自身にもアーティストとしてのセンスや勘が備わっていたわけですね。

松永 もちろんそうです。85年ごろからは、特にアルバムで「ゆずれない私」のようなものがじわ~っと出てきている印象なんですよね。その頃から小泉さんは美夏夜(みかよ)名義で作詞も始めていますし、1987年のアルバム『Hippies』では半分プロデュースも手がけています。

――小泉さんの書く詞は、平易な言葉を使いながらも、聞く人の胸に刺さるものが多いですよね。

松永 言葉の選び方も、音への言葉の乗せ方も、作詞家としてのセンスは素晴らしいと思います。それはやはり、「おいしい料理を食べている人はおいしい料理をつくれるようになる」というのと一緒で、小泉さんのためにいろんな作詞家さんが心をこめた素晴らしい歌詞や、それまでの音楽活動や人との交流から得た体験の積み重ねがあって、そういうものが自然と自分にとっての学校のように作用して培われたものも大きいと思います。

――同じように何十曲もの曲を歌ってきたアイドルでも、自分で作詞をして、なおかつ評価される人は少数ですよね。

松永 本を多く読んでいたことも背景にあるでしょうし、小泉さんは自分を俯瞰して見られる能力を持っていたんだと思います。普通は作詞をしようとすると、「もうアイドル辞めます!」みたいな感覚になって、いきなりシンガーソングライターっぽくなる人が多いと思うんですよ。いきなりアコギ持って歌い始めちゃう感じというか(笑)。でも小泉さんはそうではなくて、小泉今日子という1つのイメージを保ったまま歌詞を書いている。それは凄い技術だと思いますし、彼女は最初からそれができていたんです。

――一番のヒット曲で、自ら作詞した曲でもある『あなたに会えてよかった』も、この本を読んで改めていい曲だなと感じられました。

松永 この曲の作詞では、田村さんの「もうちょっと王道みたいなことを書けば?」と一押しが効いていて、それによって最後の「世界で一番 素敵な恋をしたね」というラインが生まれたんですよね。そうやって殻を破るというか、少し高いハードルを越える後押しをしてくれる人が彼女の周囲にはいた……というのも大きかったと思います。

取材・文=古澤誠一郎 写真=内海裕之

【後編】みんなが小泉今日子を目標にし、その“遊び”を見たがった。ミュージシャンも惹きつける小泉今日子の魅力とは?