自分にも落ち度があった性被害者は、幸せになってはいけないの――? 『先生の白い噓』
更新日:2017/6/19
読むと苦しくなってしまうのに、どうしても目をそらせないマンガがある。『先生の白い噓』(鳥飼茜/講談社)だ。大学時代、男性経験もないのに、親友の彼氏に襲われてしまって以来、秘密の関係を強要されている25歳の高校教師・美鈴。優しい人だと思っていたバイト先の店長の妻に、ラブホテルに連れ込まれ逆レイプを受けて以来、女性の身体が怖くてたまらない男子高生・新妻。二人を中心に性と暴力、そして愛のなんたるかを抉り出す作品だ。
「人間を2つに分けたとして、必ずどちらかが少しだけ取り分が多い」「私はいつも少し取り分がすくない方にいる」。そんな美鈴の独白ではじまる本作は、親友・美奈子との対比から描かれる。愛されることに微塵もてらいのない美奈子。欲しいものはまっすぐつかみにいく彼女にとって、美鈴はただの引き立て要員だ。言葉の節々にマウンティングの棘を仕込み、美鈴を居心地の悪い“下”へと追いやっていく。だが美鈴に“勝って”いると思っている彼女の婚約者・早藤の本性は、処女食いのドS鬼畜男。美鈴の性器の写真をとり、美奈子しか友達のいない美鈴の境遇と、教師という立場を盾に、関係を強要し続けている。
脅されている。虐げられている。暴力にさらされている恐怖は、美鈴の尊厳を奪い続ける。そしてときに、性の悦びを覚えてしまう自分を嫌悪し、美奈子に対する優越感をも覚えてしまう。そのことでますます、美鈴は自分自身を許せなくなっていく。
自分にも落ち度があった、と美鈴は思う。逃げようと思えば逃げられた。どこかで関係を断ち切ることもできた。そして、自己嫌悪から逃れるために、彼女はさらに思う。男と女は平等じゃない。男の強大な暴力の前に、女にはなすすべはないのだと。だからこそ、男であるのに性被害者となった生徒・新妻の存在は、彼女にとって大いなる矛盾となって現れる。おまえは逃げられたはずじゃないのか、と。
もちろん新妻の場合、本気で腕力に訴えれば逃れることもできただろう。けれど彼はそうしなかった。「旦那のある女をホテルに連れ込んだんだから責任を取って最後まで抱きなさいよ?」。そう迫られた新妻は、美鈴のように力ずくで抑え込まれたわけではないし、最終的には抱いている。けれど、だからこそ彼はその後、EDになってしまう。いやだったのに、こんなのはおかしいと思ったはずなのに、勃起してしまった自分。女の人を汚したのか、それとも汚されたのか。わからずに苦しむ彼はまぎれもない性被害者なのだ。
美鈴も新妻も、どちらも自分のことが許せない。他人につけ入る隙を与えてしまった自分の落ち度を恥じている。だから“幸せになっていい”とは思うことができずに、あがき続ける。だが二人が受けた本当の暴力は、腕力でも、社会的立場につけこんだ脅迫でもない。空気による圧だ。物理的に逃げられるかどうかなんて関係ない。一方的な強要を、受け入れざるを得ない空気が発生したとき、それはたしかに不可避の暴力となる。落ち度なんて、なかった。二人は逃げることなんてできなかったし、自分を蔑む必要だってなかったはずなのだ。
同じ傷をもつ二人が互いの痛みに触れ、互いを許しあい、癒しあおうとする姿は本作にとってかけがえのない希望だ。藁のように細い、刹那的なその関係に、読んでいる側もつい、祈りを託してしまう。
一方で、汚されてしまったからこそ、幸せに固執する人もいる。早藤に処女を奪われた歯科衛生士の玲奈は、自分こそが愛されている、特別な存在だと信じ込んだ。思い込みだろうとなんだろうと、早藤を受け入れることが本物の愛なのだと。清純な美少女として知られる新妻の同級生・三郷佳奈、通称ミサカナは、誰にも汚されることがないように、他人の欲望をコントロールしようとする。自分の価値を高め、正しく愛される存在であるために、自分を偽り続けている。
「それがどんな欲求でも、初めてひとから求められたから、だから私は馬鹿でも正しくなくても幸せなの」。そう言い切った玲奈の言葉はもしかしたら、何より早藤を恐怖させたかもしれない。馬鹿だ、若さとからっぽな従順さしか価値はない、と見下している女たちの、幸せのためなら自分のことさえねじまげるしたたかさは、早藤を次第に追い込んでいく。
どんなに苦しくても彼ら・彼女らの有様から目をそらすことができないのは、多かれ少なかれ、読む側も似たような傷を背負って生きているからかもしれない。それぞれがもがき苦しむ果てには、いったい何があるのだろう。どんな救いを見出すのだろうと、最後まで追わずにはいられない作品だ。
文=立花もも