TBS系『世界ふしぎ発見!』発、驚愕の雑学知識!「南米マチュピチュ」に村をつくった日本人がいた!
公開日:2017/6/17
TBSテレビで1986年に放送が始まった『世界ふしぎ発見!』は、ミステリーハンターが世界の街や遺跡、秘境などをめぐり、そこに隠されたさまざまな謎に迫る教養クイズバラエティ。
これまでに番組が紹介した国と地域は170を超えるが、放送開始30周年を期に刊行された『世界ふしぎ発見! 大人の謎解き雑学』(KADOKAWA)は、番組が近年放送した内容の中から際立った題材のみを厳選し最新情報も加えながら解説している、番組ファン・雑学ファン必読の一冊だ。
今回は、“空中都市”などと称され、日本人にも人気の高い世界遺産「マチュピチュ」にまつわるとっておきのエピソードを紹介しよう。
“彼”はいったい誰なのか?
ペルー南部クスコの北西、標高2400mの尾根上に築かれ、「空中都市」や「天空都市」とも呼ばれるマチュピチュ遺跡。15~16世紀に建設されたインカ帝国の離宮跡といわれ、200以上の建物から構成される世界遺産である。
「約100年前、マチュピチュに村をつくったのは日本人だった」――2014年11月、この驚くべき事実が世に報じられた。日本人がいったいなぜ、地球の裏側にあるペルー、それもマチュピチュに村をつくったのか……。
その日本人とは、福島県大玉村出身の野内与吉。1895年に大玉村の農家に生まれた与吉は、海外での成功を望み、1917年、21歳のとき契約移民としてペルーに渡った。明治から大正に時代が移り、多くの日本人が海外での成功を夢見た時代である。
現地の農園での仕事を1年で辞めた与吉は、アメリカやブラジル、ボリビアなどを放浪し、ペルーに戻った。材木商として技術と知識を身につけた彼は、マチュピチュ周辺のジャングルに目をつける。当時そこには高級な原木が生い茂っていたのだ。
与吉が現地に着いたのは1923年のこと。鉄道が通り、マチュピチュへの道がようやく開けた頃であった。彼は小さな集落だったマチュピチュ村に定住。手先が器用だった与吉は川から水を引いて畑をつくった。また、村人と木を切りにいった際に温泉を偶然発見すると、それを石で囲ってみんなが入浴できるようにしたという。そのとき与吉が見つけた温泉は、今では村の欠かせない観光名所になっている。
遺跡と温泉で観光客の到来を見込んだ与吉は、1935年に村で初となる木造三階建てホテル「ノウチ・ホテル」を建設。1階は郵便局や交番として使えるよう、村に無償で提供した。こうして彼は、村の誰もが信頼をおく存在となっていった。
愛するマチュピチュのため、尽力する
与吉は1939~41年に、村の最高責任者である行政官を務めた。マチュピチュ村は1941年に正式な村となったが、彼はその直前期に村の実質的なリーダーだったことになる。村に残る最古の出生記録には、彼が出生を認めたサインも残っているという。
1941年、太平洋戦争が勃発すると、その影響は瞬く間に南米に拡大。当時連合国側だったペルーは、日本人移民を捕らえてアメリカの強制収容所へと送った。憲兵の手は当然与吉にも迫ったが、村人が身を挺して憲兵から彼を守った。村のために尽力し、この地で家族と暮らす与吉を見捨てることなどできなかったのだ。
こうして村人に守られながら、与吉はなんとか終戦を迎えた。だがその後、彼にさらなる試練が待ち受ける。1947年、50年に一度の記録的大雨が発生。土石流がマチュピチュ村を襲い、村唯一の橋が流されてしまったのだ。
幸いこの災害で死者は出なかった。与吉は村人を励まし、地域の大きな街クスコの新聞社にマチュピチュの惨状を打電、復興基金を募るよう訴えた。そして地方政府からの命で、1948年、与吉は村の復興を託されマチュピチュ村村長に就任した。
復興を指揮し、村に力を注いだ与吉は、次世代にバトンを渡すと、晩年は子どもたちとクスコで余生を過ごしたという。そして1969年、家族と200人の村人が見守る中、その生涯を捧げたペルーに骨を埋めた。享年74であった。
文責=色川賢也