『蜂蜜パイ』『女のいない男たち』に見る『騎士団長殺し』との共通点とは? 〈第4部 地震と子ども編〉
更新日:2017/11/12
■“地震”と“子ども”が共通する『蜂蜜パイ』と『騎士団長殺し』
『騎士団長殺し』にはこれまでの村上作品ではほとんど描かれなかった、主人公が「子ども」を慈しむエピソードが登場する。
「私」が離れていた妻と生活をともにするようになった数年後(子どもがいつのタイミングで生まれたのかははっきり書かれていないが、すでに保育園に通っている年齡だ)、東日本大震災が起こる描写がある。ここで思い出されるのが、短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収録された『蜂蜜パイ』だ。これはもともと連作『地震のあとで』というタイトルで1999年に『新潮』で連載されたもので、すべての短編の中に地震の話が出てくる作品だ。しかし直接的な地震の描写ではなく、阪神淡路大震災があった関西の地から遠く離れた場所に住む人々の日常の“何か”が決定的に変わってしまった「地震後」の出来事が織り込まれているのが特徴だ。
この本の最後に収録されている、単行本用に書き下ろされたのが『蜂蜜パイ』だ。村上作品には珍しく、大人と子どもが触れ合う内容を描いている(『国境の南、太陽の西』では主人公の始が2人の女の子の父親になるが、バーの経営者として成功した始が幼馴染と浮気をしたりしてふわふわと地に足がつかず、父親的なことは幼稚園の送り迎えくらいで他にはほとんど何もしていない)。
主人公は36歳の小説家、淳平。物語は小さな女の子である沙羅に、淳平が作った「熊のまさきち」を主人公とするおとぎ話をする場面から始まる。同じ大学の教養課程のクラスで高槻と小夜子と友人になった淳平は3人でよくつるむようになるが、小夜子は高槻とつき合い、小夜子に恋心を抱いていた淳平と微妙な三角関係が生まれる。大学卒業後に高槻と小夜子は結婚、そして生まれたのが沙羅だった。しかし高槻は外に恋人を作り、小夜子と離婚してしまう。
地震があってから沙羅は「地震のおじさん」が来て、自分を小さな箱に無理やり入れようとする悪夢を見るようになり、真夜中過ぎにヒステリーを起こしては飛び起き、家中の電気をつけて隅々まで点検しないと眠れなくなってしまった。小夜子は困り果て、「神戸の地震のニュースを見すぎたせいだと思う。おそらくあの映像は4歳の女の子には刺激が強すぎたのね」とその理由を語っている。それをなだめるため淳平が呼ばれたのだ。実は淳平は離婚前の高槻から小夜子と一緒になってくれないかとお願いをされている。淳平は逡巡するが、物語の最後で「二人の女を護らなくてはならない」と心を決める(ちなみに短編集『東京奇譚集』の『日々移動する腎臓のかたちをした石』にも淳平という小説家が主人公の話がある。同一人物だとすると『蜂蜜パイ』よりも前の話だ)。
『騎士団長殺し』の「私」も、自分の子どもにテレビのニュースで流れている津波の映像をできるだけ見せないようにしている。しかし『神の子どもたちはみな踊る』のような「地震の後のシチュエーション」は積極的に描かれない。もっと子どもを「育てる」ことを描いてほしかったと思うのだが、『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』の最後には<第2部終わり>と書かれているだけなので、『ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』のように、時間を置いて3冊目が出る可能性もゼロではないのかもしれない(今のところ村上はその可能性を否定しているが)。もしかすると地震というのは、村上に小さき者や弱き者たちを守らねばならない、という感情を抱かせるものなのだろうか? 『蜂蜜パイ』の淳平は地震の後「その巨大で致死的な災害は、彼の生活の様相を静かに、しかし足もとから変化させてしまったようだ。淳平はこれまでにない深い孤絶を感じた。根というものがないのだ、と彼は思った。どこにも結びついていない」と感じている。
そしてこれは親子関係にまつわる蛇足なのだが、『騎士団長殺し』に出てくる「私」の2歳年上の友人、雨田政彦とその父である具彦について少々ひっかかることがある。「私」は文中で36歳と明記されているので、政彦は38歳、そして伊豆の施設に入っている具彦は92歳で、東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒業後の1936~39年にウィーン留学をしている。つまり1923年に起こった関東大震災よりも前、少なくとも1915年(大正4年)前後には生まれている計算になる(第一次世界大戦があった頃だ)。
本書には詳しい年代は書かれていないので断定はできないが、「私」の子どもの年齡から考えると、この物語は2011年に起こった東日本大震災の5年ほど前の2006年頃であると推測される。すると政彦が生まれたのは1960年代後半あたり。その点から考えると、政彦は50歳を過ぎてから子どもが生まれたことになる。今から約半世紀前の昭和40年代に50歳を過ぎて父親になった人はゼロではないと思うが、なかなかレアなケースだ。学校の授業参観で「なんでお前の家だけ爺さんが来てるんだよ?」と級友につっこまれることは間違いないだろう……ということで余談は以上だ。
また短編や中編がきっかけとなり、長編へと物語がストレッチするのも村上作品の特徴である。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は中編『街と、その不確かな壁』(1980年『文學界』9月号に掲載)がベースとなり、『ノルウェイの森』は『螢』(『螢・納屋を焼く・その他の短編』所収)、『ねじまき鳥クロニクル』は『ねじまき鳥と火曜日の女たち』(『パン屋再襲撃』所収)という短編がもとになっている。そして『騎士団長殺し』は、2014年に出版された短編集『女のいない男たち』に収められている『木野』に構造がとても良く似ている。妻が浮気をし、旅行バッグを持って家を出る主人公。条件の良い賃貸物件を親しい人から借り、そこで仕事をするが、素性のよくわからない女と寝てしまう。すると邪悪なものが出現し、それから逃れるために長い旅に出る……シチュエーションや人物の設定、時間軸は違うが、もしかするとこの物語がバックボーンになっているのかもしれない、という可能性を感じる作品だ。もし機会があったら、こちらも併せて楽しんでほしい。
ということで、お送りしてきた「村上春樹作品に共通することに関するあてどもない考察」はこれにて終了したい。だがそもそも小説というのは作品として楽しめればいいものなので、こうして考察するのは無駄なことなのかもしれない。村上はデビュー作『風の詩を聴け』の冒頭で「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない」と書いている。
しかし村上作品に関する様々なマテリアルやエッセンスは、そこに何かしらの関連や、奥に秘められた事実があるのではないかと考えることを喚起する力がある(それは作家の川上未映子が村上春樹に鋭く迫った『みみずくは黄昏に飛びたつ』という対談本を読むとよくわかるだろう)。機会があればまた改めて、あてどもなく考えてみたいと思う。
文=成田全(ナリタタモツ)