親を失った戦争孤児は、どう生きたのか――戦争のない世界のために、戦争孤児たちが語り継ぐ悲しい記憶

社会

公開日:2017/8/15

『もしも魔法が使えたら 戦争孤児11人の記憶』(星野光世/講談社)

 とある大学の教授が「真珠湾はどこにあるか知っているか」と問うたところ、「三重県です」と学生が答えたという新聞記事を読んで、83歳の主婦・星野光世さんは感じた。310万人もの犠牲者を出し、日本中をガレキの山と化した70年前の太平洋戦争が、忘れ去られようとしている、と。

 自らも戦争孤児だった星野さんは一念発起し、自分を含む11人の戦争孤児の体験談に自筆のイラストを添えて、一冊の絵本にまとめた。それが『もしも魔法が使えたら 戦争孤児11人の記憶』(星野光世/講談社)である。

 戦争孤児とは、文字通り、戦争によって親や家族を失い、孤児となった子どもたちのことである。太平洋戦争によって生じた戦争孤児の数は全国で12万3000人あまり(1945年厚生省調査)。大人ですら生きるのが困難だった戦中戦後の混乱の中、親を失くした大勢の子どもたちは、どのように生き抜いてきたのか?

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 重い口を開き、辛い記憶を語ってくれた11人の戦争孤児たち。やさしい語り口でつづられるそれぞれのエピソードから浮かび上がるのは、目を背けたくなるような過酷で辛苦に満ちた“戦争孤児”という終わりのない地獄だ。

 戦争孤児の多くは、東京をはじめ、大阪、神戸、名古屋、京都……日本各地を焼け野原にした米軍の空襲爆撃によって生まれた。子どもを守ろうと実施された児童の集団疎開によって、都市部に残った親が亡くなり、生き延びた子どもたちが孤児となった。中には、親類や知人に引き取られ、実の親子同様に暮らせた子どもたちもいただろうが、多くの子どもたちを待っていたのは、戦争孤児への差別や冷遇だった。11人が語る言葉のひとつひとつが、重い。その中のひとつをここで紹介したい。

「もらうか、拾うか、盗って食うしかありません」――山田清一郎さんは、神戸の三宮で空襲を受けた。母と2人で逃げ込んだ防空壕が崩れ、助かったのは10歳の山田さんだけだった。自分と同じような孤児たちと共に、爆撃されて残った銀行の金庫をねぐらにして生活した。

 仲間のアキラ君は、店でトマトを盗んで逃げる際、米兵の運転するジープに撥ねられて即死した。アキラ君の身体から流れ出た血の海の中に転がるトマトを見て、山田さんは「まるでアキラ君の“心臓の鼓動”のように見えました」という。以来、トマトは食べられないという。

 その後、ヨシオ君と上京した山田さんは、上野駅の地下道や上野公園・浅草をねぐらとする“浮浪児生活”を始めた。東京には大勢の浮浪児がおり、当時の上野駅の地下道には1000人もの浮浪児たちが暮らしており、社会問題となっていた。

「お前たちは野良犬で、町のゴミみたいなもんや。オレたちは町のゴミ掃除をしているんや!」

 浮浪児たちを「狩り込み」、収容所に連行する行政側の大人たちから、山田さんたちは酷い言葉を浴びせられた。

まわりの大人たちは、戦争孤児に対して、本当に冷たかった――。
なぜ、戦争孤児になったのか。どうして浮浪児として生きなければならないのか。そう考えてくれる大人は、周囲に一人もいなかったのです。

 山田さんはその後、長野の施設「少年の家」に行き、地元の学校に通うことになるが、そこでも戦争孤児差別に遭った。地元住民はおろか、教師すら、孤児たちを温かく迎えてはくれなかった。中学を卒業し、働きながら苦労して定時制高校を卒業した山田さんは大学まで進み、教師になった。必死に生き抜いた山田さんは言う。

戦争に両親を奪われ、たったひとりになった10歳から、27歳で教師になるまでの17年間、「生きていてよかった」と思える日は一日もありません。

 なにより辛かったのは、帰る故郷も家族も失い、孤独だったこと。

日本人がよく歌う、「ふるさと」の歌を、わたしは素直な気持ちで歌えないのです。「忘れがたきふるさと」ではなく「忘れてしまいたいふるさと」なのです。

 何度も死を考えながら、それでも「とことん生きてやる」と山田さんを奮い立たせたのは、死別した孤児仲間たちや父親、自分を犠牲にして山田さんを守り防空壕に生き埋めとなった母親への強い思いだ。

「母さん、ここまで生きてきたよ」と、自分が生きた証を残したかったからなのです。
わたしはその「見えない母」に支えられて生きてきました。

 他の戦争孤児たちの話も、読んでいて息苦しくなるようなものばかりだ。山本麗子さんは、東京で大空襲に遭うも、プールに逃げ込み九死に一生を得た。しかし、頼った親類の家では過酷な労働を課され、弟と死別。逃げ出したものの浮浪児となって「狩り込み」されて山奥に捨てられた。大空襲のことは今でも夢に見る。

「頼った先の親類が“人買い”に弟を売り飛ばし、自らも女中奉公に出された」という金子トミさんは、結婚し、家庭を築きながらも、夫が亡くなるまで「浮浪児生活をしていた過去」を隠し続けた。

「魔法が使えたら」というファンタスティックな題名とは裏腹に、11人の物語には、魔法で救われるようなハッピーエンドはない。本書の言葉やイラストの向こうには、果てしなく続く焼け野原と深い闇の広がりを感じる。そして、その闇は、今なお戦争孤児たちの心を覆っている。一度始まった戦争に、終わりなどないのかもしれない。

 人間は、多くを忘れなくては生きていけない。

 だから、大災害のことも、大戦争のことも、昨日の悲しみも、ときが経てば記憶から薄れてしまい、同じ過ちを繰り返してしまう。

 けれど、戦争の記憶は、「人が生きていくために忘れてはならないもの」だ。未だ癒えることのない深い傷を抱えた戦争孤児の11人が、思い出したくもない絶望を語り、ここに残そうとしてくれた勇気と決意に、まっすぐ向き合いたい。

 明日、トマトを美味しいと食べられるように。故郷を思いながら「ふるさと」を歌えるように。「生きていてよかった」と思えるように。二度と、戦争孤児が生まれるようなことが起こらないように。

もしも魔法が使えたら。
戦争の無い世界を願います。
魔法が使えなくても。
戦争の無い世界を願います。

文=水陶マコト