ヨーロッパの昔話はどうしてあんなに恐いのか? 不気味な雰囲気の正体に迫る マックス・リュティ著『ヨーロッパの昔話――その形と本質』
更新日:2017/11/11
小さいころ夢中になった「白雪姫」や「シンデレラ」などの昔話。特にディズニー映画ではキャラの表情や仕草がかわいらしく、キラキラのファンタスティックな世界に憧れたものだ。ところが、1998年に出版された『本当は恐ろしいグリム童話』(桐生操/ベストセラーズ)が大ヒットして以来、これらの昔話の原書はそれほどかわいらしい物語ではないことが多くの人に知られるようになった。下世話な話が好きな私はむしろ面白くて夢中になって“本当の物語”を読み漁った。どうして昔話というものはこんなに恐いのだろうと思いながら。グロテスクな描写もさることながら、独特の不気味な雰囲気を醸し出している。なんなら殊更グロテスクな描写が持ち出されなくても恐い。なんか恐い。
この疑問に対してヒントを与えてくれたのが『ヨーロッパの昔話――その形と本質』(マックス・リュティ:著、小澤俊夫:訳/岩波書店)である。チューリヒ大学民俗学科教授も務めたスイスのマックス・リュティが、膨大な資料に基づいてヨーロッパの昔話を学問的に分析した一冊だ。本書には、ヨーロッパの昔話の特質を表す“一次元性”“孤立性”“平面性”といった言葉が出てくる。これをみんな大好き「白雪姫」(誰でもネットで読める青空文庫、芥川賞・直木賞を設立した菊池寛訳を参考に)を例に説明しよう。
■不思議なものが問題なく存在する“一次元性”
白雪姫は目をさまして、七人の小人を見て、おどろきました。けれども、小人たちは、たいへんしんせつにしてくれて、「おまえさんの名まえはなんというのかな。」とたずねました。すると、「わたしの名まえは、白雪姫というのです。」と、お姫さまは答えました。
こちらは白雪姫が七人の小人と出会うシーン。白雪姫は一度驚いちゃいるけど、すぐに小人という摩訶不思議な存在を受け入れている。そもそも目を覚まして知らない人がわんさかいたら誰だって驚くだろう。彼女はいったい何に驚いたのか、実のところよくわからない。
聖者伝や伝説にも小人や魔女などの「彼岸者」はたくさん登場するが、それは人間に戦慄を与えるのに対し、昔話では主人公は落ち着いて、なんの動揺もなく彼らと交渉を持つという。これが、本書が主張する昔話の“一次元性”である。この世のものである「此岸者」とこの世のものではない「彼岸者」が、特に隔絶されることなく同じ次元に存在するというわけである。物語の世界観に飲みこまれて主人公同様に彼らの存在を受け入れていたが、確かによく考えると異常である。そのことについて何かしら説明があればまだいい。フィクションなのだから魔法も魔女もなんでもござれだ。だが、フツーの人間が主人公でありながら、何の説明もないまま誰も疑問に思うことなく話が進むのはちょっと恐い。
■経験が活かされない“孤立性”
「よい品物がありますが、お買いになりませんか。」白雪姫はなにかと思って、窓まどから首をだしてよびました。「こんにちは、おかみさん、なにがあるの。」
女王さまは死んだはずの白雪姫が生きているのを知り、彼女を殺すために変装して七人の小人の家を訪ねる。白雪姫はそうとは知らず、一度目はしめひもを売りにきた女王に首を絞められる。二度目は毒を塗った櫛を頭に刺される。そして三度目に毒入りリンゴを口にしてしまう。
白雪姫、バカじゃないのと思う。学習能力がまるでないじゃないかと。でも、それは違うらしい。これが話のすじの“孤立性”である。本書は多くの昔話に見られる傾向として「各エピソードは殻にとじこもっている。各要素はたがいに関連をもつ必要がない。(中略)登場人物はなにかを習得することはないし、体験を積むこともない」と説明し、「昔話の高度な形式」と評価する。確かに、白雪姫が学習することなくただその魅力あるモノにつられるおかげで、読み手はその先を想像してハラハラする。だが、白雪姫のこの何も考えていない、どこか人間離れした行動はなんだか恐い。
■登場人物に感情がない“平面性”
もう人々がまえから石炭の火の上に、鉄でつくったうわぐつをのせておきましたのが、まっ赤にやけてきましたので、それを火ばしでへやの中に持ってきて、わるい女王さまの前におきました。そして、むりやり女王さまに、そのまっ赤にやけたくつをはかせて、たおれて死ぬまでおどらせました。
これは物語の結びの一文である。継母である女王さまが白雪姫の結婚式にやってきて殺されるという結末だ。もちろんこの仕打ちだけでも相当恐い。だが、より恐いのはくつをはかせる人々の怒りや恐れ、踊らされる女王さまの苦しみや叫びなどがまったく描かれていないことだ。悲惨でむごたらしいことが起こっているのにびっくりするぐらい淡々としている。このギャップが恐い。「昔話に登場する人間や動物には肉体的、精神的奥行きがない」。つまり“平面的”だと表現される。
もっとわかりやすい例を挙げると、「七羽のからす」というグリム童話に次のようなシーンがある。
その子はお兄さんたちを救いだしたかった。(中略)心やさしい妹はナイフをとりだして自分のかわいい指を一本切りおとした。そしてその指を門にさしこんでうまいぐあいに門を開けた。
こうして、その子はすたすたと門の中へ入っていく。恐い。目的のためにためらうことなく指を切り、鍵代わりにその指をねじ込む。血がだらだら流れているはずなのに、死ぬほど痛いはずなのに。淡々とやってのける様子がものすごく恐い。
これらの“一次元性”“孤立性”“平面性”を共通して発揮しているというヨーロッパの昔話。本書を通して、昔話を読んだときに頭の中でイメージしていたことをはっきりと認識できた。彼らの表情がまったく想像できないのだ。主人公をはじめとする登場人物たちにぜひ「絶対無表情だろう」とツッコみたい。まるで能面でもかぶっているかのようだ。もちろん温かくもないが冷たいわけでもない。ただただ無表情。表情が読めないものほど不安をかきたてるものはない。だから恐かったのだ。ディズニー映画のように表情豊かなキャラによるキラキラ感など無縁も無縁。生きているのか死んでいるのかわからないような人々があらかじめ行動をプログラミングされてその通りに動いているような無機質な世界を感じていたのである。
だが、物語のすじとは無関係なことがすっかり削ぎ落とされた昔話はそれゆえに「文学的な最終の形」と本書は評している。表情豊かなキャラと一緒になって笑ったり泣いたりするのは当然といえば当然。感情のない登場人物たちが生み出す物語に感情を揺さぶられるならば、それって確かに物語の究極の形なのかも。
文=林らいみ