戦後ニッポンの繁栄を支えた労働者の街、大阪・釜ヶ崎を撮り続けた17年【中牟田雅央氏インタビュー】

社会

公開日:2017/10/6

『釜ヶ崎』(中牟田雅央/忘羊社)

 大阪市西成区萩之茶屋周辺の「釜ヶ崎」と呼ばれる地区は、簡易宿泊所が並ぶ“寄せ場”(日雇い労働者の集まる街)のひとつだ。ここ数年は簡易宿泊所の改装とともに、外国人バックパッカーや若い女性の宿泊客も見られるようになったが、今もなお釜ヶ崎は労働者の街だ。

 写真家の中牟田雅央(なかむた・まさひろ)さんは釜ヶ崎を17年にわたり撮り続け、写真集『釜ヶ崎』(忘羊社)にまとめた。

 現在38歳の中牟田さんが初めて大阪に来たのは、19歳の時。人生の半分を釜ヶ崎とともに過ごす中牟田さんに、なぜ釜ヶ崎をテーマに写真を撮ってきたのかをうかがった。

advertisement

最初は大阪や写真についての関心は薄かった

▲『釜ヶ崎』より

 福岡出身の中牟田さんが大阪に来たきっかけは、友人に会うため旅行したことだった。当時は写真にも大阪にも特段の興味はなかったが、滞在するうちに「洗練しすぎていない、人間臭さに魅力を感じて」、住むことを決めた。そして大阪にいるうちに、実家が写真関係の仕事をしていたこともあり、釜ヶ崎をテーマに写真を撮りたいと思うようになったそうだ。

「天王寺駅周辺で青空(路上)カラオケをやっていたのは知っていたけど、釜ヶ崎のことは歴史も含めて知らなかったんです。ある時『天王寺のすぐ近くに、労働者の街がある』と聞いて、撮ってみたいなと。でも知り合いもいなかったので、最初はただカメラを下げて歩く感じで、全然撮れなかった。注意されたこともあったし、怖気づいてしまってカメラを向けられなかった。でもしつこく釜ヶ崎に通ううちに、次第に向こうから声を掛けてくれたり、写真を撮らせてくれたりするようになって。バイトをしながら、ひたすら通い続けました」

 数年後、すぐ近くの新世界地区に高級ホテルがオープンする予定になっている。街が再開発されて美しく整えられていくと、低所得者は居場所を奪われてしまうことが多い。釜ヶ崎もこの先、変わってしまうかもしれない。しかし中牟田さんはあくまで、街の記録ではなく人を写すことにこだわっている。だから街を写した写真は、写真集には数点しか収められていない。

「釜ヶ崎の街をテーマにすると社会的な写真になってしまうかもしれないし、それよりは釜ヶ崎の人のほうに興味があったから。でも撮影を許可してくれた人の背景は、向こうが言ってくれれば聞きますけど、あえて自分から聞くつもりはありませんでした。だから写真には、特にキャプションを入れていません。色々な事情で集まった人たちを写真に残していいのかと思うこともありましたが、彼らにどうしても惹かれるので、撮らずにはいられなくて」

釜ヶ崎を知らない人にこそ、見てほしい

▲『釜ヶ崎』より

▲『釜ヶ崎』より

 ぎゅっと目をつぶるもの、ギターと肩を抱えて歌うもの、咆哮なのかそれとも癖なのか、口を開けて彼方をにらみつけるもの……。中牟田さんの写真に写っている労働者たちは、どこの誰なのかわからない。しかし撮影したその時、確かに釜ヶ崎に存在していたことはわかる。言わば名もなき男性たちの、記憶の記録になっている。

「最初に知り合った人は今はもう釜ヶ崎にいないし、亡くなった人もいます。最近も仲がいい人が入院してしまって。でも写真集を持っていったら、とても喜んでくれました。写されるのが嫌な人もいるけれど、意外と喜んでくれる人もいるんですよね。初めて訪れた時は、街に色がないように感じていたけれど、今は色がついて見えています。自分もこの街にいる感じだし、実際近くに住んでいます。自分に合ってたんでしょうね」

 バックパッカー御用達になった釜ヶ崎だが、写真に写る人たちは裕福とは言えない場所に暮らし、中には体に傷を持つものいる。それゆえに「怖い」というイメージを持ってしまうかもしれないが、釜ヶ崎をよく知らない人にこそ写真を見てほしいと、中牟田さんは言う。

「以前、昔の釜ヶ崎の記録写真を見たことがあるんですけど、いる人たちの佇まいや表情が、今とそう変わらなかったんです。この街の人間臭い雰囲気は、ずっと変わらないんだなと気づきました。怖いと言われることも多い釜ヶ崎ですが、特に凶悪犯罪が起きるわけではないし、外国人旅行者も安心して泊まっています。僕にとってみたら東京のほうが疲れるし、怖く感じます(苦笑)。

 人の内面を撮るといったらおこがましいけれど、表情のシワや仕草から、その人の個性が伝わる写真を残したい。だから自分なりに『この人はこういう人かな』と思いながら撮ったので、そこを見てもらえたらと思います」

▲『釜ヶ崎』より

取材・文=今井 順梨