GHQによって1年弱で廃止された未完のプロジェクトの全貌――なぜ日本は第二次大戦への道を歩まざるを得なかったのか

社会

公開日:2017/12/7

『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く(講談社現代新書)』(井上寿一/講談社)

 筆者は東京、杉並区の住宅街で生まれ育った。家の近くに、高い木々に囲まれた異様に大きな敷地と屋敷があった。幼児には魔界のようで、母親に「ここはだれの家?」とよく聞くのだが、いつも「偉かった人よ」と答えをはぐらかされた。小学校高学年の頃やっと、「その昔、首相だった近衛(このえ)さんという人が住んでいた」と、正解が聞けた。

 1937年に第34代内閣総理大臣となった近衛文麿(このえふみまろ、1891年10月12日~1945年12月16日)は、その後、第38・39代と、合計3度首相として日本のかじ取り役を担った人物だ。

 子供の頃の疑問が解決して以来、近衞さんの人生を詳細に知る機会はなかったが、最近になって、いかに壮絶な最期を迎えた人だったかを教えてくれた本がある。
それが『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く(講談社現代新書)』(井上寿一/講談社)だ。

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 第二次大戦敗戦直後の1945年11月、当時の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が発足させた国家プロジェクトがあった。それが「戦争調査会」だ。このプロジェクトの目的は、戦後に残された大きな3つの課題を検証することにあった。

1、なぜ戦争は始まったのか?
2、分岐点はいつだったのか?
3、なぜ戦争に敗れたのか?

 同時期には、歴史の授業で習う「極東軍事裁判」(通称「東京裁判」)も行われていた。そのため、多数の戦犯逮捕、公文書焼却という困難な環境下で、戦争調査会は調査を進めた。この裁判と戦争調査会が大きく違うのは、後者は決して戦犯探しという個人攻撃をするための調査ではない、ということだ。

 後世の日本人のために、なぜ日本が中国戦争、そして第二次大戦への道を歩まざるを得なかったのか、その原因を自らの手で検証しようとした国家プロジェクトだったが、「次の戦争に備えるためではないか」という疑いから、GHQによって1年弱で活動は廃止された。

 本書はまず、幻と化した戦争調査会の全貌を明かす。そして、集められた証言や資料などをもとに、調査会が未完に終わらせていた3つの課題の検証を、著者が引き継ぐ形で問題の核心に迫ろうという内容だ。

 冒頭にあげた近衞首相は、課題のうちの「2、分岐点はいつだったのか?」で、主役を演じることになった人物だ。

 本書では、第二次大戦へと向かう流れができた大きな分岐点として、1940年9月27日の「日独伊三国同盟」と「仏印(フランス領インドシナ)進駐(同年9月22日)」をあげている。これを行ったのが第二次近衞内閣だった。

 このことが後々、米国の日本への不信を招き、その溝を埋めることができずに大戦へと向かっていく。しかし近衞首相は決して、対米戦争を望んでいたわけではないことも本書は明かしている。

 つまり、政治家や軍人たちの様々な思惑に翻弄されつつ内閣は迷走を続け、気づくと本意とも万全とも言えない状況下での大戦へと流れてしまうのである。

 終戦後、戦犯として裁判に召集されるも、近衞首相は自身の手で人生を絶った。

 本書を読んで筆者は、幼少期に察知した、うっそうとした邸宅跡のもの寂しさをふと思い出した。母親がなかなか筆者に正解を言わなかったのは、近衞氏の数奇な人生の結末を知っていたからなのかもしれない。

 本書では他にも、第二次大戦へと流れてしまった当時の国内・世界事情、大戦中の国内産業事情や、苦戦を強いられた戦場でのリアルな描写が、戦争調査会の報告をもとに記されている。それは教科書からは決して学べない、戦前・戦中・戦後の日本。

 こうした資料をまとめ検証した本書が、「反戦争」という国民の強い意志へと結びついてくれることを、願わずにはいられない。

文=町田光