メディア過熱報道、即戦力としての重圧…「ドラフト1位」として期待された元選手たちの光と陰

スポーツ

公開日:2018/1/3

『ドライチ ドラフト1位の肖像』(田崎健太/カンゼン)

 松井秀喜、松坂大輔、ダルビッシュ有、田中将大…とドラフト1位指名でプロ球団に入団し、輝かしいキャリアを手に入れた野球選手を挙げていけばキリがない。しかし、彼らの栄光の陰で「ドラフト1位」の瞬間が野球人生のピークになってしまった選手もたくさんいる。

『ドライチ ドラフト1位の肖像』(田崎健太/カンゼン)はドラフト1位指名(=ドライチ)されながらも、期待された成果を残せなかった野球選手たちの人生を追ったノンフィクションである。彼らがプロで活躍できなかった要因はさまざまだ。しかし、確実にいえるのは彼らの野球人生にもファンの心を震えさせるドラマが眠っていたのである。

 2005年、読売ジャイアンツに高校生ドラフト1位指名された辻内祟伸を襲ったのはマスコミの喧騒と周囲の過熱だった。連日、自宅を待ち伏せされ、些細な発言がふくらまされてメディアに載る。「普通のことが普通にできない」ほどの報道の中、辻内に降りかかるプレッシャーは徐々に大きくなっていく。2007年の冬キャンプ、痛みを我慢してプロ生活を続けていた辻内に限界が訪れる。投球中、想像を絶する痛みを覚え、すぐ東京に帰宅。ポジションを失う恐怖から体を酷使していた辻内の靭帯がついに切れてしまったのだった。手術後も痛みは引かない。以降、辻内は満足に投げられるシーズンを送れないまま、2013年10月に戦力外通告を受ける。

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 1998年、ドラフト1位で横浜ベイスターズに入団した古木克明は、釈然としない指導方針に悩まされる。バッティングこそ定評があった古木だが、守備はプロで通用するレベルに達していなかった。そこで、横浜は古木に二軍でさまざまなポジションを経験させて守備を向上させようとした。しかし、監督がコロコロと変わる下位球団では、若手の育成が一貫しない。一軍に昇格しても守備は改善されず、複数のポジションをたらい回しにされて2009年のシーズン終了後に引退している。

 辻内にせよ、古木にせよ高校時代はずば抜けた才能で日本中から注目されていた球児だった。しかし、それだけではプロに定着できない。なんとか1、2シーズンほどは好成績を収められてもすぐにポジションを奪われ、チーム内の居場所を失ってしまう。辻内は故障に耐えながら投球を続け、古木はなんとか守備のミスを直そうと努力を続けた。それでも明暗が分かれるのがプロの厳しさなのである。

 甲子園の大スターさえ、プロ野球では目立った成績を残せないままキャリアを終えていく。1980年、荒木大輔は早稲田実業のエースとして夏の甲子園に出場した。投球もさることながら、端整な顔立ちは女性ファンを虜にし、一躍国民的人気を獲得した。1982年のドラフトでも1位でヤクルトスワローズに入団し、当然歴史に名を刻むほどの選手になるだろうと期待されていた。

 しかし、荒木は冷静だった。いきなりプロで通用はしないだろうと考え、入団3年目での一軍定着を目指した。本人の計画通り、3年目から先発ローテーションに入り、4、5年目には開幕投手も任された。それでも、肘の故障によって全盛期はすぐに終焉を告げ、1988年から4年間も実戦から遠ざかった時期もあった。荒木の引退は1996年である。

 彼らの短すぎる輝きを残念に思う野球ファンは多い。しかし、どんな名選手でも「プロ野球生活より引退後の人生の方が遥かに長い」のは摂理である。ドライチと期待された者たちが味わった挫折は、彼らの心を強くした。本書は過去の栄光についての記録ではなく、8人の野球選手がもがきながらもファンに残した生き様の証なのである。辻内は本書でこう言い残している。

ぼくの人生で自分の思ったような速球を投げられたのは、三、四年くらい。それで野球人生を終えたことは後悔はしてないです。

文=石塚就一