『君たちはどう生きるか』のヒットはどのようにして生まれたのか?【鉄尾周一×羽賀翔一対談】
更新日:2018/4/17
鉄尾周一(編集者)×羽賀翔一(漫画家)
マガジンハウスが昨年8月に刊行した『漫画君たちはどう生きるか』は、わずか4カ月ほどで100万部を突破。同時発売の「新装版」もすでに30万部で合計130万部の大ヒットになった。特に漫画版は80年前に書かれた吉野源三郎の小説を、単なるコミカライズを超えた作品として蘇らせた。漫画家の羽賀翔一さんは、この作品をほとんど1人、しかも手描きで描き上げたという。なぜいまこの本に光を当てたのか、どのように作り上げられたのかを、担当編集者のマガジンハウス・鉄尾周一取締役と、羽賀さんに語ってもらった。(編集部)
父から受け取ったバトン、若者に伝わっていた
――この本を企画した背景を教えてください。
鉄尾 僕は、大学生のときに父から勧められたのがこの本との出合いでした。ただ、学生の頃は、素晴らしい本であるとは思いつつも、啓蒙的な内容に少し道徳的すぎるかなと思うところもありました。
そもそも作品が書かれたのは80年前、私が読んだ当時でも50年以上経っていたので、クラシックな良書ではあっても、若い人にはなかなか届きにくいと思っていました。それが5年ぐらい前に、30歳代の若い男性編集部員が、「この本は素晴らしいんですよ」って、とうとうと語るのを聞いて、ちょっと驚きました。さらに、それからあまり間をおかずに、同じ世代の若い女性編集者の机の上に、読み古した岩波文庫版が置いてあって「えっ」と思った、ということが続いたのです。
僕が親父から受け取ったバトンが、若い彼らに伝わっていたと感じたんです。名作は時代を超えて伝わるのだと確信しました。そこで、新しいかたちで伝えられないかと考えたのが漫画化のきっかけです。
「漫画でわかる」ではない漫画化目指す
――最初から漫画にしようと考えたのですか。
鉄尾 パッケージを変えれば伝えられるんじゃないかと思いました。その時代にふさわしい伝え方、伝わり方があるんじゃないか、今なら漫画というパッケージなら、多くの人にメッセージが伝わるんじゃないかと考えたのです。
以前から名作を漫画にすることはよくありますし、漫画で分かると銘打った参考書や、ベストセラーの漫画化などもよくあります。ただ、これまでは、ハウツーっぽかったり、分かりやすくということを主眼にしていたように思いますが、今回の本はちょっと違う形で漫画化すべきだろうという考えは、企画を立てた当初からありました。
しっかりしたストーリーがあり、込められた強いメッセージもある。それらをうまく漫画で伝えられたら、多くの人に響くんじゃないかと思ったからです。
「原作超えろ」で引き受ける
――羽賀さんは仕事を請けたとき、どう感じましたか。
羽賀 概要をつかむためだけのコミカライズだったら、もしかしたらお請けしていなかったかもしれません。僕が所属するエージェント会社コルクで、この本を担当してくれた柿内(芳文)さんと鉄尾さんとのお話しで、原作を超えるぐらいのものを作ってほしいというご依頼だったのでお引き受けしました。
恥ずかしながら僕は原作の存在すら知らなかったんですけど、読んでみて、しっかり人間が描かれていると思いましたし、題名から受ける堅苦しい印象のお話ではなかったので、やってみたいと感じました。
しかも、マガジンハウスから本を出せるんですよ。憧れの出版社と仕事ができるのは、売れない漫画家にとって、こんなチャンスはないという期待も、もちろんありました。「僕のラストチャンスだ」っていうぐらいの気持ちでした。
我流で漫画書き始める
――単行本は何冊目ですか。
羽賀 市販の単行本は3冊目です。
――デビューは講談社ですね。
羽賀 モーニング編集部の「MANGA OPEN」という、形式自由で、何に描いても、どんな分量でもよい新人賞で奨励賞をいただきました。当時はモーニング編集部にいた佐渡島(庸平、現コルク社長)が担当に付いたのが、漫画家としてのスタートでした。
――賞を取ってからは順調でしたか。
羽賀 我流で大学ノートに描いた漫画「インチキ君」が、奨励賞とはいえいきなり賞を取って、担当編集者が付いて、割とすぐ『モーニング』本誌にも短編が載るというところまでとんとん拍子でしたから、すぐに成功しちゃうのではないか、ぐらいのおごりはありました。しかし、そこから下積みが始まりました。
エージェント会社コルクに所属
――その佐渡島さんが設立したコルクに所属しているのですね。
羽賀 佐渡島さんがコルクを設立するときに、「羽賀くんも一緒にどう」と声をかけてくれました。講談社では担当が佐渡島さんともう1人いらしたので、講談社で仕事を続ける選択肢もありましたが、佐渡島さんと一緒に漫画を作りたいと思ってついていきました。コルクがどういう会社なのか、話を聞いてもよく分からなかったんですけど(笑)。
売れなかった本がきっかけに
――それが、ここに結び付いたのですね。
羽賀 『ケシゴムライフ』(徳間書店)という作品が単行本になっているのですが、実はこの本がきっかけになりました。初出は『モーニング』の短期連載で、コルクが発売元を徳間書店にお願いして、クラウドファンディングみたいな感じで資金を集めて出版した本です。でもあまり売れなくて、返品のダンボール箱を自ら運んで、「この重さは、忘れん」みたいな気持ちになっていたんです。でも、この本が出ていなかったら、多分、今回の仕事に出会っていなかったと思います。
鉄尾 講談社の編集者だった原田隆さんが『ケシゴムライフ』を読んでいて、僕に羽賀さんを推薦してくれたんです。
漫画化を思い付いたものの、僕は漫画に不案内というか、お手上げ状態でした。そこで、仲よくさせてもらっていた原田さんに相談したのです。コルクができて1~2年ぐらいのときだったでしょうか、佐渡島さんのところに羽賀さんという漫画家がいて、彼の作風がぴったりだと言われました。
正直、僕は羽賀さんのことは知らなかったんですが、『ケシゴムライフ』を読ませていただいて、これはぴったりの作風だと思って頼んだというのが経緯です。ですから原田さんがこの作品の第二の生みの親なんです。しかし、原田さんはこの本ができあがる前に、一昨年、脳梗塞で亡くなられて出来あがりを見てもらえなかったのが、とても残念です。
原作あっても苦戦
――原作があると、早くできるのですか。
羽賀 ストーリーができているので、苦戦しないかと思いきや、そんなことはありませんでした。結局、漫画を作るのは、原作があろうが、オリジナルだろうがあまり変わらないと、描き上げてからは思います。
やはり、漫画として生きたキャラクターを新しく作らなければなりません。自分の記憶だったり、経験の引き出しを開けていかなければ、コペルくんや浦川くんといった登場人物がどういう気持ちかを描ききれない。僕もコペルくんと同じ母子家庭で育ったので、割と同調しやすいところもありましたが、細かい演出を足したり、漫画として読みやすくするとか工夫が必要です。描きながら、自分が中学生、小学生だったときのこと、描くまですっかり忘れていた出来事も思い出しながら、コペルくんと自分を重ねて描いたところが多くありました。
そもそも吉野源三郎という人が、どんな考え方をしているのかを知るために、別の著作を読んだりもしました。結局、自分が漫画家としてやるべきことは、キャラクターの感情をしっかり拾い上げ、読者が共感しやすいように再現する行為だったのだと思います。
――完成までには時間がかかったのですか。
鉄尾 最初にネームを作って、それから絵を描いていくんですが、1章ごとにネームを作ってもらって打ち合わせをして戻すと、なかなか返ってこない。僕は1年ぐらいで完成すると思ってたんですが、その調子でやっていると10年ぐらいかかるんじゃないかという感じでした(笑)。そこで、まず最初にネームを全部書いてもらいました。
そうやってネームができたんでひと安心。あと絵を付ければいいし、絵は本職だから、もうできたようなものだと高をくくっていたら、また、音信不通みたいな感じで、結局2年間かかりました。
できたときはほんとにうれしかった。そして、完成した原稿を読んでみたら、最高の出来上がり。ほんとに原作とは、また違った新しい作品が出来たんじゃないかと感じましたね。
ほとんど1人で手描き
――なぜ時間がかかったのですか。
羽賀 ぎりぎりになったときだけ1人アシスタントをお願いして簡単な作業をやってもらいましたが、最初から全部自分で描くと決めていました。それから、デジタルで色を付けるのであれば、一晩でどのぐらいできるというスピード感があるんですが、この作品は何か違うと感じ、全て手で描いて塗りました。僕は絵で見せるタイプの漫画家ではないのですが、この作品は細かい表情の違いを刻まないと、強い物語にならないと思ったので、そこはすごく気を使って描きました。
――特に表紙にインパクトがありますね。
鉄尾 装丁は川名潤さんというデザイナーにお願いしましたが、川名さん、羽賀さん、柿内さんと相談をして、漫画版の表紙は強くて目立つように、コペルくんの寄りにしようということになりました。そこから、羽賀さんがどうコペルくんを描くのか試行錯誤が始まったんですね。
本編に登場しない表紙の表情
羽賀 川名さんから「寄りの顔ドンでやりましょう」と言われて描いたんですが、横で見ていた佐渡島さんから、もっと情報量の多い絵を描くようにと言われました。コルクの事務所に『宇宙兄弟』の小山宙哉さんの最初の単行本「ジジジイGGG」の表紙の原画が飾られているんですが、すごく大きくて、いろんな色味が混ざった絵でした。それを見て、もっと人を立ち止まらせて考えさせる絵にしないといけないと思って描き直したのがこの絵です。
人から言われて気付きましたが、表紙のコペルくんの表情って、本編の中では出てこない。読み終わって本を閉じたときにつながると。僕も全部描き終わったあとに表紙を描いたんで、そういう気持ちがこもったのだと思います。
――羽賀さんにとって、この作品はどういう意味を持ちますか。
羽賀 もちろん、とても大きな作品になりました。ただ、この次、その次が大事になってくるんで、なかなかハードルが高すぎますね。
原作大切にする人の存在を実感
――書店でサイン会もされてますね。
鉄尾 これまで丸善日本橋店と武蔵小山のブックスタマでやらせていただきました。
羽賀 発売してまだ10万部ぐらいのときにもかかわらず、たくさんのお客さんに来ていただきました。
「1冊持っているんだけれども、プレゼントしたいから買い直した」とか、何冊も買ってくださる方とかがいらっしゃって、原作をずっと大切にしてきた方々が潜在的にたくさんいらっしゃったことを実感しました。
鉄尾 1月中旬には名古屋と大阪で行ったサイン会もおかげ様で大盛況でした。
テスト販売で好スタート切る
――この本は発売前に書店でテスト販売したのですね。
鉄尾 販売担当者の紹介で、丸善日本橋店の篠田(晃典)店長と知己を得る機会があって、今度こういう本を作っているので読んでみてくださいと、ゲラをお渡ししたところ、確か翌日だったと思いますが、すぐに連絡があって、「すごくいい作品だから、先行販売やりましょう」と言ってくださいました。
そこで発売の10日ほど前に、100冊ぐらい納品し、入口の所とか、エスカレーター脇など3カ所ぐらいで展開していただきました。すると、とても評判が良くて、すぐ追加をかけていただいて、いいかたちでスタートすることができたのです。
発売後も、多くの書店さんが初めからとてもいい場所に置いてくださいました。そして、POPを描いてくれたり、看板を作ってくれたりと、多くの書店の方に気に入っていただくことができました。そこから、どんどん広がって、いろいろな展開をしてくださった。これだけ短期間に広がったのは、書店さんに気に入っていただいたのが一番の原因だったと思います。
――書店で自分の本をご覧になったときどう感じましたか。
羽賀 つい立ち読みしている人のそばに行って、僕が描きましたって言いそうになるんです。先日も本屋さんに行くと、おばさんがプレゼントするためか、この本を脇に抱えて本を選んでいたり、中学生ぐらいの女の子が一生懸命読んでくれていたりといった姿を見て、とてもうれしく感じました。
そもそも原作といまの人たちの懸け橋になるような漫画にしたいと思っていたので、80年続いてきた作品を、さらに次の80年残すための役割を、多少は果たせたのかと充実感を感じます。
書店発のベストセラーに
――何か書店に伝えたいことはありますか。
羽賀 もう感謝しかないです。
鉄尾 ベストセラーは、人気作家の作品だったり、ニュースになったとか、賞を取ったとか、いろいろなパターンがあると思うんですが、今回はほんとに書店の方が盛り上げてくださってここまで来た「書店発ベストセラー」だと思います。これからも、ぜひもっと多くの人に読んでいただければと思っておりますので、引き続きの展開をお願いいたします。
――どうも、ありがとうございました。
記事提供=文化通信
羽賀翔一(はが・しょういち)氏
1986年茨城県生まれ。2010年「インチキ君」で第27回MANGA OPEN奨励賞受賞、11年「ケシゴムライフ」を短期集中連載、14年に単行本発売、近刊に「昼間のパパは光ってる」。エージェント会社コルクに所属
鉄尾周一(てつお・しゅういち)氏
マガジンハウス取締役編集担当。1959年4月10日生まれ。1999年『an・an』編集長、2008年書籍編集部編集長、13年書籍編集局局長、17年取締役編集担当。林真理子『美女入門シリーズ』や村上春樹『村上ラヂオ』などを手掛ける