あなたの生活に、上質な意地悪は足りていますか? 人生を豊かにする、意地悪のススメ 

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公開日:2018/1/31

『いとも優雅な意地悪の教本(集英社新書)』(橋本治/集英社)

 2017年の新語・流行語大賞にノミネートされつつも、大賞は逃した注目ワード「ちーがーうだーろー!」「このハゲー!」と併せて、議員による秘書への暴言として世間を騒がせたことは、いまだ記憶に新しい。怒号の飛びかうブラックバイトやSNSでの炎上など、現代では誰もが日常のなかで「暴力」と一触即発になりかねない危機をはらんでいる。

                                                      

『いとも優雅な意地悪の教本(集英社新書)』(橋本治/集英社)は、そのような言葉の「暴力」がはびこる社会へのアンチテーゼとして「意地悪」の効用を掲げている。当代一の知識人、橋本治氏の提唱する「意地悪」がただの「意地悪」のわけがない。いやそもそも「意地悪」の定義とは? 本書には、善良すぎて「意地悪」のなんたるかをすっかり忘れてしまっている私のような読者のために、親切にも文中のところどころに「ここが意地悪ですよ」という、「意地悪」のツボ案内を、天の声のツッコミのごとくちりばめている。話を戻そう。なぜ、暴力に対して意地悪が効果的なのだろうか。

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人は言葉が足りなくなるとキレて暴力に走る

 第一講でその理由が明かされていく。人を罵倒するとき「バカ」だの「デブ」だのといったストレートで単純な言葉が使われやすいのは、短いからすぐ意味が伝わるため、相手の衝撃度が大きくなるからだという。「人は言葉が足りなくなるとキレて暴力に走ります」と本書も示唆するように「暴力」との分水嶺は言葉にあるのだと認識させられる。長い人生、晴れやかな感情の日ばかりではない。ふとネガティブな思いを抱くこともあるだろう。けれども無用な争いは回避したい。どうすれば自分の感情をスマートに収めていけるのだろうか。

 そこで「意地悪」という表現法が生きてくる。著者は、自分のなかの憎悪や嫉妬といったネガティブな感情は、あってはならないものと押し込めるのではなく、とりあえず存在を認めたうえで、その感情を発散しやすくする表現を使うべきと指摘する。

 言葉が短いからすぐに応酬され険悪な雰囲気になるのであれば、言葉を長くして衝撃度を薄めてみる、はぐらかしてみる。悪口とは簡単にバレない悪口の訓練をする。ああ、意地悪とはなんと複雑で頭を使うものだろう。本書ではこう述べている。                                                          

                                                

意地悪は完全犯罪に似ていて手間がかかり、その分だけ「暴力」に変化してしまうエネルギーを昇華させる効果がある

「私が何をしたの?」と胸を張って、白鳥のように優雅に意地悪を遂行するために 水面下で懸命に足を掻く。「意地悪」という「ソフィスティケート」は、そういった手間暇から生まれるのかもしれない。                                                  

内なるモラルと知性の両立する意地悪を

                                                 

「意地悪」は今に始まったわけではないらしく、第二講からは文学や映画、実在の人物などを焦点に「意地悪」が読み解かれていく。著者の手にかかると、樋口一葉や紫式部といった先人たちも、即座に「意地悪」とは見破られないような表現で、さまざまな感情を文章に託していたことが浮かびあがる。                                                                                                                            

 ここでも鍵となるのは「言葉」だ。上質な「言葉」が思索から生まれるのであれば、母国語や古典文学を学ぶ意義は、先人が育んだ巨大な「思索の森にあずかれる」ことにあるのではないだろうか。

「上質な意地悪が足りないから日本人は下品になった」と帯にあるように、本書の示す「意地悪」とは「内なるモラル」と「知性」を伴い、ネガティブなものとは一線を画していることがわかる。それは「批評」精神という、変貌する生きる知性にも思えてくる。この本をきっかけに考える習慣を持ちたい。知恵を知性に変えて人生をより充実させたい10代から100歳までのあらゆる年代にお薦めの一冊だ。

文=佳山桜子