「性に憑かれた社会」に疲れた皆さんへ。孤独とセックスの関係を考える

社会

更新日:2018/3/5

『孤独とセックス(扶桑社新書)』(坂爪真吾/扶桑社)

「(行為としての)セックス」という言葉から連想されるものは、単純な生殖のための物理的接触=性器と性器の結合だけではないだろう。私たちが生きるこの社会では、「セックス」に対して多様かつ過剰な意味が付与されているようにも感じる。時には自己啓発の手段として称揚され、またある時には堕落や退廃の元凶として糾弾され、さらには無意識のうちに社会的評価のモノサシとして用いられることも…。

「経験人数」「童貞卒業」のような言葉がそこらじゅうに転がっているこの世の中を「性に憑かれた社会」と表現するのは坂爪真吾氏。社会的な切り口で現代の性問題の解決に取り組む人物で、著書に『はじめての不倫学』(光文社)、『性風俗のいびつな現場』(筑摩書房)などがある。そんな著者が、現在18歳の男子、そしてかつて18歳だった全ての男子に捧げる一冊『孤独とセックス(扶桑社新書)』(坂爪真吾/扶桑社)を本稿ではご紹介させていただきたい。

■「小さな死」としてのセックスの誘惑

 人間がセックスに誘惑される背景には、純粋な性的欲求や生殖本能だけでなく、「セックスを通して、誰かと心を通わせたい」「ありのままの自分を受け入れてほしい」といった承認欲求が潜んでいるという。

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 フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユは、生殖を目的としない性行為(エロティシズム)を「小さな死」と表現した。セックスによって人間は自他の境界線を忘却し、気を失うような性的絶頂を通して、疑似的な死の体験(死のシミュレーション)ができるのだという。「小さな死」によって楽になりたい・救われたいという願望は、多かれ少なかれ、誰の心にも隠れているはずだと著者は指摘する。心理的・身体的に弱っている状態であればあるほど、「自分のことを受け入れてくれる相手と、全てを忘れさせてくれるような快楽の渦に溺れたい」という思いに囚われ、「セックスさえできれば」「恋人さえできれば」もう死んでもいい、と思い詰めるようになるという。

 しかし、現実に自分の理想通りの相手、望み通りのタイミングで「小さな死」を味わうことのできる人はほとんどいない。失望と孤独の中で、「セックスさえできれば、死んでもいい」という願望は、「セックスできなかったら、もう死んでもいい」という自殺願望にも容易に転化すると著者は説く。

■境界線は幻想である。セックスの前に必ず告白すべきかどうか

 告白や合意はあくまでも形式(念押し)に過ぎず、目に見える形式に過剰にこだわるのではなく、目に見えない関係=お互いの信頼関係を育むべきだと著者は説く。他人と友達になる過程で「自分と友達になってください」とわざわざ告白しないのと同じで、恋愛も、気が付けば恋人になっていた、いつのまにかセックスする関係になっていたというケースが大半だ。

 孤独な男子は、どうしても自分にとって都合の良い二元論=「敵/味方」「格上/格下」「被害者/加害者」「選ばれた存在である自分/その他大勢の人間」などに基づいて、自分と他人、自分と社会の間に境界線を引いてしまいがちだ。そして、そうした線引きをすることによって、何事かを成し遂げたかのように思い込みがちだ。

 しかし、安易な線引きは孤独へとつながる一本道だと著者は説く。「友人/恋人」の二元論に囚われていると、友人から恋人の関係に移行するために、どこかのタイミングで意を決して「一か八か」の告白をしなければならない、という強迫観念に駆られてしまいがちだ。本当に必要なのは「一か八か」のギャンブルに賭けることではなく、相手との間で既成事実を積み重ねることなのだ。

 本書は、著者が“孤独な童貞”だった頃の実体験と、その後の著者の活動に基づく見地から、男子諸君へ贈る恋愛ガイドブックとなっている。とは言っても本書は単なる恋愛工学の書ではない。もちろん、世に出回っている恋愛工学の中には非常に深く示唆に富んだものも数多く存在する。ただしその根底として、孤独とセックスの関係について心得ておくことは重要だと感じる。本書『孤独とセックス』は、この「性に憑かれた」社会を生き抜く「性に疲れた」現代男子諸君に必読の一冊だと言えよう。

文=K(稲)