200人以上の子どもを更生させてきた「ばっちゃん」と非行に走る少年たちのリアル
公開日:2018/3/12
なぜ子どもたちは非行に走るのか。「親の教育が悪いから」「家庭が貧しいから」。こういった答えが聞こえてきそうだが、きっとそれは私たちが何も知らないから出す結論だ。今にも誰かを殴りそうな雰囲気を漂わせる彼らには、心から聞いてほしい訴えがあるのだと思う。
広島に「ばっちゃん」という名で子どもたちから慕われている女性がいる。今年で84歳になる中本忠子さんは、万引きや暴力など、非行に走った子どもたちを受け入れ続けてきた。その期間はおよそ40年。更生した子どもたちは200人以上。誰も信用できなくなった子どもたちを、中本さんはどうやって更生させてきたのか。『ばっちゃん~子どもたちの居場所。広島のマザー・テレサ~』(伊集院要/扶桑社)には、ばっちゃんの言葉と私たちの知らないリアルが描かれていた。
■それでも中本さんは子どもたちにご飯を食べさせた
2017年1月7日、NHKで「ばっちゃん~子どもたちが立ち直る居場所~」という番組が放送され、大きな反響を呼んだ。本書は、その番組ディレクターである伊集院要さんが手がけた1冊。放送では視聴者に届けることのできなかった、ばっちゃんの思いや子どもたちのリアルを詳細に書きあげている。
中本さんが「ばっちゃん」と呼ばれたきっかけは、保護司として活動を始めた時までさかのぼる。法に触れる行為をしてしまった子どもたちは警察に捕まったあと、家庭裁判所で裁かれる。その後、更生の余地がありそうならば、国家公務員である「保護観察官」と無給ボランティアの「保護司」が指導したり相談に乗りながら、彼らの新しい道を一緒になって見つける。
中本さんもはじめは保護司らしく、何かあれば相談に乗って、悪さをすれば指導していた。でも、なかなか言うことを聞いてくれなかった。ある時、シンナーをやめられない少年を注意していたのだが、やっぱりダメ。そこでなぜ態度を改めないのか中本さんが問うと、少年はこう言った。
「水の一杯ももらってないのに何で言うこと聞かんといかんのんか?」
叱られることが嫌いなわけでもお金を無心するでもなく、たった1杯のお水を欲しがったのだ。この時から中本さんは、子どもたちにジュースをあげて、そのうちご飯を食べさせるようになった。時には学校に弁当を持って行った。するとどうだろう、子どもたちはみるみる変わった。他人の言うことは聞かなくても、中本さんの言うことだけは聞く。万引きや暴力もなくなった。後日、例の少年がシンナーをやめられなかった本当の理由を打ち明けた。
「シンナーを吸っていると、お腹が空いていることを忘れられる」
中本さんの中で「非行」と「子どもの空腹」がつながった瞬間だった。子どもたちに話を聞けば、保護司を担当する子どもの友達もお腹を空かせているという。ならば、と中本さんはこう言った。「非行の友達に会うくらいならウチに連れてきなさい」「悪いことするくらいならウチにおいで」。
やがて毎日のように子どもが家を出入りした。本当に毎日、四六時中だ。昼も夜も関係ない。中本さんはどんなときも可能な限りご飯を振る舞った。1日3升の米を炊くこともあった。貯金を切り崩すこともあった。それでも中本さんは子どもたちにご飯を食べさせた。そのうち地域の非行少年の間で中本さんが評判になった。「あの人は信じられる」。
保護司の活動を始めて20年ほど経った頃、ある少年が中本さんをこう呼んだ。
「ばっちゃん」
由来は、自分の「おばあちゃん」ではないけど、地域の「おばちゃん」よりは身近な存在だから。そうして中本さんは「ばっちゃん」と呼ばれるようになった。
■糞尿でカピカピになった下着を履き、お腹を空かせる子どもたち
本書には、中本さんが子どもたちを愛し、献身する姿が描かれている。決して見返りを求めることなく、偏った態度で接することなく、家に出入りするすべての子どもを受け入れる姿勢には、言いようのない思いが湧きあがる。ばっちゃんこそ、慈しみを体現する存在ではないか。本書を読んでいると心を洗われるような気持ちになるのだが、一方で私たちの知らないリアルも描かれている。
本来、子どもは無垢な存在だ。善も悪も、これから学ぶ真っ白な生き物だ。その子どもに愛情と笑顔を教えるのが親の役目。だが、それを果たせず、暴力やネグレクト、もしくは親が自分自身を支えることができなくて、子どもの世話まで手が回らない事態になると、自らの心を支えられなくなった子どもたちは非行に走る。
昨今は貧困が叫ばれている。「家庭の貧しさが子どもの人生に影響する」という意見が目立つが、ばっちゃんに言わせれば、それは「普通の貧困」だ。非行に走る子どもたちの親は、暴力団関係者だったり、ギャンブルやクスリに手を染めて生活保護で暮らす人々。彼らは意外とお金を持っているが、それを子どもたちに分け与えることなく自分で使ってしまう。だから少年たちはお腹を空かせて万引きをする。不安と悲しみで暴力をふるってしまう。
中本さんの家には、少年の彼女として来ることはあっても、女の子が困り果ててやってくることは少ない。なぜなら彼女たちは服を脱ぐことでお金を稼げてしまう。少女売春をすることで生活できてしまうのだ。生きるために売春をして捕まる彼女たちに、私たちは今までどんな言葉を投げかけてきただろう。
本書では小さな公園で暮らす兄弟も紹介されている。読むだけで辛くなる。糞尿でカピカピになった下着を履き、悪臭を漂わせながらお腹を空かせている子どもたちの存在をどれだけの人が知っているだろう。私たちは何を見落としているのか。何を知らなければならないか。
また、伊集院さんは本書で「安易に答えを出してほしくない」とも言及している。「親が悪いなら親を更生させろ!」や「生活保護制度を見直せ!」という安直な意見で片付けてほしくないのだ。事態はそんなに簡単ではない。そんな方法では子どもたちは救われない。彼らが本当に傷ついているのは心だ。それを救う手立てを考えるべきだ。だからといって中本さんのような活動を誰しもができるわけでもない。
ならばどうするべきか。それを一丸となって考えるのが社会だ。全員でこの事実を知り、どうすれば解決できるのか。誰も知らないところで怒りに震えながら心の中で泣いている子どもたちを、知ろうともしない社会であってほしくない。本書を読んで「感動したね」で終わってほしくない。
ばっちゃんは今も毎日家を開放して子どもたちを受け入れている。そしてばっちゃんが続けてきたことを地域でも行えるよう活動している。月に2回、地域の公民館で「食べて帰ろう会」が開かれ、子どもたちと地域の人が集まって一緒にご飯を食べているのだ。その慈しみはまさに「広島のマザー・テレサ」そのもの。
では、なぜ中本さんはこのような活動を続けることができたのだろう。本書ではその答えがいくつか記されているが、その中でも伊集院さんが一番好きなばっちゃんの言葉を最後に載せたい。
「子どもの顔を見よったらね、せんにゃおれんようになる。今日のこの子らの顔でも見てごらんよ。来た時にはお腹を空かした顔よ、帰る時には生き生きしちょるじゃろ。
違うでしょ。食前と食後いうたら。あれを見ると、せんにゃいけんと思うよ(笑)。
で、かわいいじゃろ。そう思わん? 携わった人間だけが、かわいいかわいい言うけど、人から見たら、何こげな子が、かわいいじゃろうかという人がおるかもわからんけど、そやけどあどけないじゃん。じゃけん、食べたあとの顔見てよ。ものすごく、和やかじゃろ」
文=いのうえゆきひろ