たった一行で致命傷になることも…人をも殺す言葉の決闘

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公開日:2018/4/5

『悪の箴言(マクシム) 耳をふさぎたくなる270の言葉』(鹿島茂/祥伝社)

「ペンは剣よりも強し」と云うと、直接的な暴力よりも言葉のほうが人々に影響力があると理解されているけれど、この言葉の下には「偉大なる人物の統治下では」と続いて、政治力のある人間は命令書にサインするだけで意志を実行できるという意味なんだそうな。地位も権力も持たない庶民の身としては、何か言葉を発したとしても虚空の独り言になりかねない。そのうえ、言葉で人を罵ったり名誉を傷つけたりするより、暴力や殺人行為の罪が重いとされているのは、はやり言葉の威力が弱いからだろうか。しかし、言葉で傷つけられた人が自殺してしまうことがあるし、人々を煽動して他人を殺めることだってある。『悪の箴言(マクシム) 耳をふさぎたくなる270の言葉』(鹿島茂/祥伝社)は、「たった一行で致命傷になることも」との警句が帯についているように、武器になりうる言葉を集めた1冊だ。

 教訓や戒めとなる言葉を意味する「箴言」に、フランス語の「マクシムmaxime」を当てた著者は仏文学者で、本書に引用されている言葉もフランス文学からが多い。なんでもフランスでは「辛辣な人間観察を含んだ格言、箴言」により構成された文学形式が好まれ、フランス人の文化的背景、ひいては思考にも影響しているのだとか。

 まず、著者が示すマクシムの定義は、主語が個人ではなく「人」でなければならないこと。次の条件は、エレガントであること。個人攻撃のように普遍性を持たず、乱暴であってはいけないこと。というのも、17世紀の中頃にフランスの内戦が終息し、ルイ14世が強固な中央集権の政治体制を築いた平和な時代、「武器による戦い」の代わりに「位階争いの戦場」となった「宮廷作法」において、まさに武器として使われたから。「言葉の短刀」で相手の心臓を一撃で貫くのと同時に、相手の宮廷での位階を下げる。現代風に云うと、自分の優位性を顕示するマウンティングみたいなものかもしれない。

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 また、マクシムは普遍性を持っていなければならないが、相手のことを良く知っていないと上手くいかない。本書に紹介されている寓話には、こんなものがある。川辺で遊んでいた少年が川に落ち、通りがかった学校の先生に助けを求めると、その先生は助ける代わりに説教を始めてしまう。そして、この寓話の作者が突如として話に介入し、「おーい、助けてくれ(私を危険から救い出してくれ)! 説教はその後だ!」という警句が入る。日本人の多くは、この警句のほうに賛意を示すだろうけど、著者によるとフランスではあまり多くの賛成票を得られず、「助けてやるが、しかし、私の話をまず聞きなさい」というほうが支持されるだろうと述べている。つまり、自分が云われて傷つく言葉で相手を攻撃しても、それで致命傷を与えられるとは限らないのだ。

 そういう意味では、いくつかのテーマごとにマクシムを引用している本書において、最強の攻撃力を持つのは、「自己愛(アムール・プロプル)」に言葉の刃を向けた時だろう。自分で自分を褒めるのも、もちろん他人から褒められたいのも、それどころか謙譲や自己嫌悪といった想いさえ、自分を投影して映る自己愛が強いからと云われたら、反論のしようが無い。「批判を書いている当人も、批判が的確だと褒められたいがために書くのだ」というマクシムには、ドキリとさせられた。

 どうも、闘うとなれば自分の身を切る覚悟が必要らしく、これをマウンティングにたとえるのは、猿同士の争いみたいで品が無い。せめて格式を重んじ、正々堂々と「言葉の決闘」を挑みたいところだ。どうせなら、相手に白い手袋を投げつけてみようか。おっと、敵に面と向かってではなく、あくまで一般論として発しなければならないんでしたっけ。本書のマクシムを猿マネしても、返り討ちに遭いそうですな。

文=清水銀嶺